最後の単位修得試験が終わった。
あとは、課題と作品を入れた封筒に封をして明日送るだけ。
それで今年度の勉強は終了だ。
おととい、年度当初立てた学習計画を見直していたら、テキスト科目であと1単位あれば来年卒業できたことがわかった。
目標を高く立て過ぎていたせいで、全然足りていないと思い込んでいたのだ。
計算してなあんだと思ったけれど、卒論のことなど考えもしていない今、それは無理な話かと考え直した。
この1年、大学に入ってわかったことがよっつある。
ひとつは、自分の読書傾向にはかなり偏りがあったということ。
ふたつめは、考えずに読む癖がついているので、大事なものは何度も読み返さないと頭に入らないということ。
みっつめは、感覚に頼って、ある種カンで書いていること。
そしてよっつめは、自己評価と他者評価にさほどの差はないということ。
読み癖書き癖があるのは承知していたけれど、それがどういうところで、読むこと書くことにどんな影響を及ぼすのかまでは考えもつかなかった。
己を知ることは、怖ろしい。
でも、楽しくもある。
走り出したら、ゴールが気になって当たり前。
自分は何キロ走るのか、ゴールまであとどのくらいあるのか、自分の走る速さは、どのくらいのペース配分で行けば走り切れるか。
ただがむしゃらに走るのではなく、そういうことを考えながら走るのが今の自分のやり方だろう、と声高らかに言いたい。誰に言うでもなく。
1年目は今ある己の力量を量り、現在地を知った。
来年は、そこから絞り出せるだけ絞ったときになにを生み出せるかが試される年。
悲鳴を上げるくらいでないと、やりがいはない。
さあ、明日から休まずやるべし、やるべし。
あとは、課題と作品を入れた封筒に封をして明日送るだけ。
それで今年度の勉強は終了だ。
おととい、年度当初立てた学習計画を見直していたら、テキスト科目であと1単位あれば来年卒業できたことがわかった。
目標を高く立て過ぎていたせいで、全然足りていないと思い込んでいたのだ。
計算してなあんだと思ったけれど、卒論のことなど考えもしていない今、それは無理な話かと考え直した。
この1年、大学に入ってわかったことがよっつある。
ひとつは、自分の読書傾向にはかなり偏りがあったということ。
ふたつめは、考えずに読む癖がついているので、大事なものは何度も読み返さないと頭に入らないということ。
みっつめは、感覚に頼って、ある種カンで書いていること。
そしてよっつめは、自己評価と他者評価にさほどの差はないということ。
読み癖書き癖があるのは承知していたけれど、それがどういうところで、読むこと書くことにどんな影響を及ぼすのかまでは考えもつかなかった。
己を知ることは、怖ろしい。
でも、楽しくもある。
走り出したら、ゴールが気になって当たり前。
自分は何キロ走るのか、ゴールまであとどのくらいあるのか、自分の走る速さは、どのくらいのペース配分で行けば走り切れるか。
ただがむしゃらに走るのではなく、そういうことを考えながら走るのが今の自分のやり方だろう、と声高らかに言いたい。誰に言うでもなく。
1年目は今ある己の力量を量り、現在地を知った。
来年は、そこから絞り出せるだけ絞ったときになにを生み出せるかが試される年。
悲鳴を上げるくらいでないと、やりがいはない。
さあ、明日から休まずやるべし、やるべし。
自分が最近、考えていないことは認識していた。
ここもあまり頭を使わなくていい話題を選び、思いついたままを書き、書くことを忘れないようにするために書いているようなものだった。
あれもやって、これもやって、と頭の中はやることリストがいくつも箇条書きになっていて、考え事をしてペースを崩すのが怖いし、もったいないと思っていた。
昨日、今度の日曜日にある最終の試験勉強のためにテキストを読み返していた。
初めは文字を追うだけだったのが、読み進めるうちに大事なことを忘れてしまうような気がして、カバンの中から黄色いマーカーを取り出した。
昨年の秋に1度読んだはずなのに、なぜか今回ラインを引いたところはほとんど頭に残っていなかった。
やっぱりこういうものは何度も読み返さなくちゃいけないなと、思った。
そのおかげなのか、今日会社のトイレで冷たい水に手をつけたとき、ふと書く動機についてひらめいた。
自分には書く動機がないとくり返しているけれど、ほんとうはちゃんとあったのだ。
書くという行為の前には、必ず考えるという行いがある。
なにをどんなふうに書くか。
脳みそのすみっこしか使わなかったとしても、考えなしには書くことはできない。
だから所謂「文章の書き方」の本には書くテクニックだけでなく、考えることについても書かれている。
そしてそれは、ほとんど書くテクニックの前に述べられている。
それくらい、書くことと考えることは密接に繋がっている。
というか、考えなければ書くことなどできないのだ。
書くために考えるのか。
考えたことを書くのか。
それを、わたしは数ヶ月取り違えて思考をストップさせていた。
考えることができないなら感じればいいと、きもちが反応するものに順応させていたけれど、それがすべて書く動機に繋がるものでもないらしい。
少なくともわたしの場合は、考える容量を減らしてまで感覚を研ぎ澄ませても、それは思うような自分ではないし、望むものが書けるわけでもない。
思考と感覚のバランス。
それが両立されていないと、感受したものなど使い捨てだ。
感じたことがどんなものなのか。
なぜそう感じたのか。
感じたことによって、どうなるのか。
それを吟味して、咀嚼して、そして書くという行為で消化する。
その一連の流れが留まらずにゆくことが、わたしの望みなのだ。
あくまでも感覚は起点であり、時にヤマ場を作るきっかけにはなるが、オチになることはない。
最後は絶対、自分が考えたことでしか終われないのだ。
ときどき自分の書いたものがちゃちに思えることがある。
でもそれでも書いておこうとしたのは、感じたことを流してしまわずに考えたことだからだ。
逆に、そういうことしか書けないとも言える。
わたしはよく、「思う」とか「考えた」という言葉を多用する。
それは、わたしがある出来事に遭遇した事実を書きたいのではなく、遭遇したことで感受したものをどう噛み砕いて自分のものにしたのかを書こうとするからだ。
だから、わたしは考えなくてはならない。
わたしから考えることをなくしたら、価値はあるだろうか。
自分では、ないと思う。
考えるからわたしであって、考えなければわたしでなくていいのだ。
ちょっと前まで書くことが自分の存在意義だと捉えていたけれど、それは違っていた。
書くことはやはり手段であって、目的ではない。
自分から書くことをなくしても言葉が共に消えることはないけれど、考えなくなったら言葉など不要だ。
うすっぺらい記号みたいなものが言葉の代わりになって、生活するくらいはできる。
でもそんな意味のない言葉の中で、自分が生きていけるとは思えない。
わたしが書きたいのは、わたしが考えたことだ。
そうして書いたものを誰かが読んで、こんなことを考えている人もいるんだと、その人が感じたことを始点になにか繋げていってくれたらいい。
と、そんなことを望んでいる。
劇的なことなど起こらぬ人生だけれど、頭の中は波乱万丈。
それこそ、その物語のような思考を物語のように書けたら、じたばたするくらいおもしろいはず。
ここもあまり頭を使わなくていい話題を選び、思いついたままを書き、書くことを忘れないようにするために書いているようなものだった。
あれもやって、これもやって、と頭の中はやることリストがいくつも箇条書きになっていて、考え事をしてペースを崩すのが怖いし、もったいないと思っていた。
昨日、今度の日曜日にある最終の試験勉強のためにテキストを読み返していた。
初めは文字を追うだけだったのが、読み進めるうちに大事なことを忘れてしまうような気がして、カバンの中から黄色いマーカーを取り出した。
昨年の秋に1度読んだはずなのに、なぜか今回ラインを引いたところはほとんど頭に残っていなかった。
やっぱりこういうものは何度も読み返さなくちゃいけないなと、思った。
そのおかげなのか、今日会社のトイレで冷たい水に手をつけたとき、ふと書く動機についてひらめいた。
自分には書く動機がないとくり返しているけれど、ほんとうはちゃんとあったのだ。
書くという行為の前には、必ず考えるという行いがある。
なにをどんなふうに書くか。
脳みそのすみっこしか使わなかったとしても、考えなしには書くことはできない。
だから所謂「文章の書き方」の本には書くテクニックだけでなく、考えることについても書かれている。
そしてそれは、ほとんど書くテクニックの前に述べられている。
それくらい、書くことと考えることは密接に繋がっている。
というか、考えなければ書くことなどできないのだ。
書くために考えるのか。
考えたことを書くのか。
それを、わたしは数ヶ月取り違えて思考をストップさせていた。
考えることができないなら感じればいいと、きもちが反応するものに順応させていたけれど、それがすべて書く動機に繋がるものでもないらしい。
少なくともわたしの場合は、考える容量を減らしてまで感覚を研ぎ澄ませても、それは思うような自分ではないし、望むものが書けるわけでもない。
思考と感覚のバランス。
それが両立されていないと、感受したものなど使い捨てだ。
感じたことがどんなものなのか。
なぜそう感じたのか。
感じたことによって、どうなるのか。
それを吟味して、咀嚼して、そして書くという行為で消化する。
その一連の流れが留まらずにゆくことが、わたしの望みなのだ。
あくまでも感覚は起点であり、時にヤマ場を作るきっかけにはなるが、オチになることはない。
最後は絶対、自分が考えたことでしか終われないのだ。
ときどき自分の書いたものがちゃちに思えることがある。
でもそれでも書いておこうとしたのは、感じたことを流してしまわずに考えたことだからだ。
逆に、そういうことしか書けないとも言える。
わたしはよく、「思う」とか「考えた」という言葉を多用する。
それは、わたしがある出来事に遭遇した事実を書きたいのではなく、遭遇したことで感受したものをどう噛み砕いて自分のものにしたのかを書こうとするからだ。
だから、わたしは考えなくてはならない。
わたしから考えることをなくしたら、価値はあるだろうか。
自分では、ないと思う。
考えるからわたしであって、考えなければわたしでなくていいのだ。
ちょっと前まで書くことが自分の存在意義だと捉えていたけれど、それは違っていた。
書くことはやはり手段であって、目的ではない。
自分から書くことをなくしても言葉が共に消えることはないけれど、考えなくなったら言葉など不要だ。
うすっぺらい記号みたいなものが言葉の代わりになって、生活するくらいはできる。
でもそんな意味のない言葉の中で、自分が生きていけるとは思えない。
わたしが書きたいのは、わたしが考えたことだ。
そうして書いたものを誰かが読んで、こんなことを考えている人もいるんだと、その人が感じたことを始点になにか繋げていってくれたらいい。
と、そんなことを望んでいる。
劇的なことなど起こらぬ人生だけれど、頭の中は波乱万丈。
それこそ、その物語のような思考を物語のように書けたら、じたばたするくらいおもしろいはず。
会社を出て、ビルの隙間から見える西の空を見上げた。
だんだん陽が長くなってきているのが、わかる。
東よりも明るい西の空には、雲だけがシルエットのように黒く浮かんでいた。
手前にあるビルの灯りがぽちぽち目立ちだし、北へ向うまっすぐの道で時折左を向いてその絵を確認した。
昨日は、夕飯を食べたあと車を走らせた。
会社帰りにベスパで行ったCDショップにandymoriのセカンドアルバムがなかったので、仕切りなおして出かけたのだ。
夜、車に乗るは久しぶりだった。
ベスパで行ってもいいなと思ったけれど、寒さや風の冷たさより、帰りに車で聴いて帰れるからと車にした。
1番近いHMVでCDを買ったあと、15分もしないうちに駐車場を出た。
どの道から帰ろうかと思案しながらも、ぐるぐる回る立体駐車場では出口がどこにどう出るかわからなくて、まあいいやと出たとこ勝負でハンドルを切った。
川沿いの暗い道では、向こう岸にいくつも灯りが見えた。
1曲目と2曲目を聴いたところで、ハンドルを握ったままぶるっと震えた。
発売日をこんなに楽しみにすることも久方ぶりだったけれど、それが空クジなしの大当たりだったことに対する驚愕と狂喜。
1曲がどれも短いのでアルバム1枚はそう長くはないはずだと、でたらめに道を選んで帰った。
耳に馴染むのが早い。
リピートし続けても、飽きない。
こりゃーすごい。
外では音楽を聴かないので(というか、聴けるブツをなにも持っていない)、今日は1日ハナウタを歌って過ごした。
帰り道みたビルの灯りは、昨日車の中でこの絵と音がパウチされて記憶に残ればいいと思っていたその絵を思い出させた。
そうして、足は家路へと急ぐ。
小さい部屋の小さいスピーカー目指して。
だんだん陽が長くなってきているのが、わかる。
東よりも明るい西の空には、雲だけがシルエットのように黒く浮かんでいた。
手前にあるビルの灯りがぽちぽち目立ちだし、北へ向うまっすぐの道で時折左を向いてその絵を確認した。
昨日は、夕飯を食べたあと車を走らせた。
会社帰りにベスパで行ったCDショップにandymoriのセカンドアルバムがなかったので、仕切りなおして出かけたのだ。
夜、車に乗るは久しぶりだった。
ベスパで行ってもいいなと思ったけれど、寒さや風の冷たさより、帰りに車で聴いて帰れるからと車にした。
1番近いHMVでCDを買ったあと、15分もしないうちに駐車場を出た。
どの道から帰ろうかと思案しながらも、ぐるぐる回る立体駐車場では出口がどこにどう出るかわからなくて、まあいいやと出たとこ勝負でハンドルを切った。
川沿いの暗い道では、向こう岸にいくつも灯りが見えた。
1曲目と2曲目を聴いたところで、ハンドルを握ったままぶるっと震えた。
発売日をこんなに楽しみにすることも久方ぶりだったけれど、それが空クジなしの大当たりだったことに対する驚愕と狂喜。
1曲がどれも短いのでアルバム1枚はそう長くはないはずだと、でたらめに道を選んで帰った。
耳に馴染むのが早い。
リピートし続けても、飽きない。
こりゃーすごい。
外では音楽を聴かないので(というか、聴けるブツをなにも持っていない)、今日は1日ハナウタを歌って過ごした。
帰り道みたビルの灯りは、昨日車の中でこの絵と音がパウチされて記憶に残ればいいと思っていたその絵を思い出させた。
そうして、足は家路へと急ぐ。
小さい部屋の小さいスピーカー目指して。
1 村上春樹 めくらやなぎと眠る女
2 丸谷才一 思考のレッスン
(テキスト)
・西岡常一・小川三夫・塩野米松
木のいのち木のこころ<天・地・人>
・吉本哲郎 地元学を始めよう ※
・佐藤郁哉 フィールドワーク増訂版―書を持って街へ出よう
今年の年越しは、珍しく読みかけの本3冊とともに迎えました。
正月休みの間にもっと読めるかと思っていたら、暖房の効いた部屋で本を開くと眠くなってしまい、昼寝に突入するパターンが多く、ちびちび読む程度で終わってしまいました。
それにしても、村上春樹の『めくらやなぎと眠る女』はおもしろかったなあ。
これは『象の消滅』に続いて、新潮社がニューヨークで発表された村上春樹の短編をまとめたものです。
よって、すべて読んだことのある短編小説ばかりでしたが、並び(編集)が違うとまた違った印象を持ちます(一部改訂等あり)。
特にこのシリーズ、わたしは装丁がとても気に入っています。
カバーは透明で、『象』は黄色、『めくらやなぎ』はピンクの装丁が透けて見える作りになっています。
本を左手で支え、右手の親指でページ部分をずらしてパラパラしたときの感触が、するするつやつやしていてこれまたきもちがいいのです。
厚さは結構あるので手に馴染むとは言いがたいですが、表紙がなんとなく指に吸い付く感じがします。
実は、そういうことも本を読む楽しみのひとつだったりします。
相変わらず本屋に行くと、あれもこれも読みたいとうずうずしますが、まずは机の上に積まれた数冊を読み切ってしまいましょう。
ああ、でも、今年の本屋大賞にノミネートされた本が気になります・・・。
2 丸谷才一 思考のレッスン
(テキスト)
・西岡常一・小川三夫・塩野米松
木のいのち木のこころ<天・地・人>
・吉本哲郎 地元学を始めよう ※
・佐藤郁哉 フィールドワーク増訂版―書を持って街へ出よう
今年の年越しは、珍しく読みかけの本3冊とともに迎えました。
正月休みの間にもっと読めるかと思っていたら、暖房の効いた部屋で本を開くと眠くなってしまい、昼寝に突入するパターンが多く、ちびちび読む程度で終わってしまいました。
それにしても、村上春樹の『めくらやなぎと眠る女』はおもしろかったなあ。
これは『象の消滅』に続いて、新潮社がニューヨークで発表された村上春樹の短編をまとめたものです。
よって、すべて読んだことのある短編小説ばかりでしたが、並び(編集)が違うとまた違った印象を持ちます(一部改訂等あり)。
特にこのシリーズ、わたしは装丁がとても気に入っています。
カバーは透明で、『象』は黄色、『めくらやなぎ』はピンクの装丁が透けて見える作りになっています。
本を左手で支え、右手の親指でページ部分をずらしてパラパラしたときの感触が、するするつやつやしていてこれまたきもちがいいのです。
厚さは結構あるので手に馴染むとは言いがたいですが、表紙がなんとなく指に吸い付く感じがします。
実は、そういうことも本を読む楽しみのひとつだったりします。
相変わらず本屋に行くと、あれもこれも読みたいとうずうずしますが、まずは机の上に積まれた数冊を読み切ってしまいましょう。
ああ、でも、今年の本屋大賞にノミネートされた本が気になります・・・。
あれよあれよという間に、ここを始めて5年が経った。
ほんとうはその間に、あれよあれよなんて言っていられないくらいのこともあったけれど、今そう思えるということはそれでいいのだ。
ここがなければ、こんなにまで書くことも考えることも、読むことも、自分の中に沁み込んではゆかなかっただろう。
この時代に生きててよかった。
今年も、『The Book of Answers』を開いた。
今年の言葉は。
「好機を逸するな」
ミゲル・デ・セルバンテス 『ドン・キホーテ』
そうそう、今まで何度もチャンスを掴み切れなかったのだ。
さあ、今日からまた、新たな1年歩いてゆきましょう。
ほんとうはその間に、あれよあれよなんて言っていられないくらいのこともあったけれど、今そう思えるということはそれでいいのだ。
ここがなければ、こんなにまで書くことも考えることも、読むことも、自分の中に沁み込んではゆかなかっただろう。
この時代に生きててよかった。
今年も、『The Book of Answers』を開いた。
今年の言葉は。
「好機を逸するな」
ミゲル・デ・セルバンテス 『ドン・キホーテ』
そうそう、今まで何度もチャンスを掴み切れなかったのだ。
さあ、今日からまた、新たな1年歩いてゆきましょう。
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