言霊の幸わう国

独立した痛み

 昨日は寝る前から、肩凝りとそれからくる偏頭痛がしていた。
 夜中何度も寝返りをうって、ズキズキする痛みを騙し騙し、朝を迎えた。
 一瞬目が覚めるたびに頭痛薬を飲もうかどうか悩み、寝ればなんとか痛みは取れるんじゃないかと、起き上がることはしなかった。

 痛みに耐えるべきだと、いう考えが頭の中にあった。
 耐えうるならば、なおのこと。

 けれど結局、朝小さなパンをお腹に収めたらすぐに頭痛薬を2錠飲んだ。
 このままでは仕事ができないと判断したから。

 最近、少し痛みに敏感になっている。
 ような、気がする。
 痛みを負うのはやっぱり嫌だと思い、でも負わずにすむわけもないかと思い直し、だったらせめて痛みを軽減できるようにはならないかと考え方を変更した。
 よく言う、転び方を学べ、だ。


 先日から、村上春樹を読み返している。
 それは、2ヶ月ほどでやってくる欲求のサイクル。
 でも今回は持続性があるようで、まずは「ダンス・ダンス・ダンス」を、そして数日前に「羊をめぐる冒険」を読んだ。
 なんの気なしに「ダンス・ダンス・ダンス」を本棚から取り出し、気になって「羊をめぐる冒険」を読んだのだけれど、所謂「僕と鼠もの」であるふたつの作品は、主人公の「僕」の数年間が描かれている。
 今回わたしはそれを結果出典を遡って読むことになり、いつもは独立した作品として読んでいたので、初めての読み方の中で「僕」に対して違和感を感じた。
 その違和感は、そうか「僕」は同じ人なのだ、と改めて認識するところから始まり、「ダンス・ダンス・ダンス」で感じたまさにダンスのステップのような軽やかさに反して、「羊をめぐる冒険」では痛々しさを感じた。

「羊をめぐる冒険」のエピローグで、「僕」が泣くシーンがある。
 あまり描かれない泣く描写。
 眠りにつくほんの少し前に読んだそのページを、わたしは、押し寄せる感情の波をそっと睡魔に変えてしまおうと、閉じた。
 その息詰まるように感じたものが「ダンス・ダンス・ダンス」にはなく、それはもちろん作者の意図でもあるのだけれど、それとは別にわたしは「僕」が30歳というラインを越える前かどうかが違いなのかなと思ったりした。
 それというのは実は超えてみるとどうってことのない、ひとつの時間の流れなのだけれど。


 と、そんなところから端を発し、数日間時流というものについて考えていた。
 わたしも自分を「僕」のように遡って読むことができたら、痛みとの向き合い方も変わるのかなと。

 現実の世界の中でそれはありえないと、もちろんわかっている。
 でも自分の過去を記憶以上の形で読めたら(見るではない)、経験も違った認識ができ、痛みの度合いも嵩を変えるのではないかと考察してみたりするのだ。
 
 先日書いた「腑抜け」の一件で、わたしは久しぶりに自分のことで泣いた。
 それは悲しみからのものではないけれど、でもテレビのドラマやドキュメンタリーを見て流すものとは違うと感じていた。
 泣く準備なのか、泣かない準備なのかは判別がまだつかないものの、これから自分に起こる、いや起こすことに意識がかなり傾いて、若干神経質になっている。
 どうやったらそれをうまく乗り越えられるのか。いや、ほんとうは、どうやったらうまく転べるのかを考えているのだ。

 でも過去を振り返っても、どれも次にくる痛みとは違っているような気がする。
 どれもがそれぞれの痛い記憶として、残るのだ。
 だったら、頭痛を我慢するくらいではなんの足しにもならないと今気づいた。
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by fastfoward.koga | 2008-10-26 19:46 | 一日一言 | Comments(0)