言霊の幸わう国

寂しい世界

 最近よく見る夢は、高いところで落ちないようにバランスを保ちながら、怖くない怖くないと言い聞かせている夢だ。
 夢占いでキーワード検索しても高いところ、というのは引っかからないので確かではないけれど、高層ビルだと目標や目的などを示すらしい。
 高層ビルでいい気分がいいと思っているとその目標へ努力するとよい結果が出、その反対だと高望みをしているのではないかというのだ。

 自分自身、今一体なにに高望みをしているのかがわからない。
 探ってみても、宥めてみても思いつくものはない。
 それを何度かやってみたもののやっぱりないよなと思ったところで、ずっと昔に読んだ「コインロッカー・ベイビーズ」の主人公キクが言った言葉を思い出した。

「自分の欲しいものが何かわかってないやつは石になればいいんだ」

 10代のころに読んで、それからずっと自分を見失うとこの言葉を頭の中でくり返した。
 いつかわかるはず。今わからなくても答えは出るはず。
 そう言い聞かせて、何度も何度も自分の欲しいものを問うていた。


 先日、トーキョーの神田神保町で堀江敏幸の「熊の敷石」を買った。
 もちろん古本屋さんで、保存状態のとてもいい初版本だった。
 その本を手に、そのあと友人宅へ向かった。
 いつもと同じように友人の手料理をご馳走になり、おみやげにと買ってきたおやつを一緒に食べ、こどもたちと遊び、友人とああでもないこうでもないと話をした。そして、夜になると支度をしてもらったベッドのある部屋で眠った。
 朝、目が覚めてすでにこどもたちとテレビの声がしているリビングに向かおうとドアの取っ手に手をかけたとき、そこにあるものにしっかりと馴染んでいる自分を認識した。
 感じてもいいはずの違和感がないことに対する違和感に、ほんの少しもぞもぞした。

 確かにそこは今までに数回泊まらせてもらっているうちで、友人夫婦もこどもたちも気心は知れているから、馴染んでもいいほどの場所だとは思う。
 けれどドアの取っ手を握りながら、同じような感覚が記憶の抽斗の中にしまわれていることを思い出した。
 それは、10日間の夏休みで旅をした東北でのことだ。

 正直、東北の旅は楽しかったのひと言ではすまされないものだった。
 楽しいこともあったし、おいしいものも食べたし、見たものに感嘆の声を上げたりもした。
 でもなぜかその前の年に出かけた南九州での旅ほどの新鮮さと輝きはなく、今記憶と感覚を呼び戻してもシンとした世界の中を歩いていたような感じする。


 毎年この時期に日本漢字能力検定協会が今年の世相を現す漢字を発表している。
 今年は「変」が選ばれ、例年同様清水寺で貫主によってその文字が書かれた。
 ブログを始めてから、同じ日にわたしも自分の1年を現す文字をここに書いている。
 今年選んだのは、「漂」。
 漂泊するの、漂だ。

 東北の旅を筆頭に、今年はあちこち出かけた旅がどれもこれも踏みしめて歩き回ったというよりは漂うように彷徨ったように思う。
 地に足が着いていない。
 そう表現したほうが、自分としては言い得ている。
 気づくと旅先でそう感じていることに対して、漂うのは居場所というものを探しているからなのかと自問した。
 初めはそれが答えに思えて、ぬくぬくとした恵まれた環境にいるくせになんて贅沢なことを考えているのかと自分を責めてみたりしたけれど、トーキョーから帰って「熊の敷石」を読み進めるうちに、自分がしていることは漂泊ではないことを知った。

「さまようこと、彷徨すること、あるいは漂泊すること。私の小さな現実においては、過去に命のかかった逃亡などありはしなかったし、またこれからもありえないだろう。どこかへ出かければ、かならず出かけたところへ戻ってくる。パリからこの村へ移動したあとふたたびパリへ戻り、さらには東京へ戻る。私はつねに、そのたびごとの私の家にいる。自分自身の行動をコンタクトプリントさながら見晴らしよく回顧すれば、それらはすべて往還であって漂泊でないことが明らかになるだろう。」

 旅をすると体だけではなく、心も彷徨う。
 なにかを求めているはずなのに、それがなにかわからずくり返しくり返し満足できず飽きることなくまた旅に出る。
 でもそれはわからなくても仕方がない。わたしが探しているのは、記憶だから。
 過去の自分、そこに生まれ育ち生活する誰か、その場に一緒にいない誰か、連れてこられなかった誰か。
 そのいずれかの、もしかしたらそのすべての記憶。
 そういうものを探し求めているから、数学のような正解はない。見つかることもあれば見つからないこともある。そういうものだ。
 でも決して見つけられなかったとしても、未来の自分が探そうとする記憶を残してゆくことはできる。だからわたしは報われなくてもいつか報われることを、体の中にある細胞レベルに近いものでわかっているから旅を続ける。

 そんなふうにくり返す旅は、やっぱり漂泊ではなく還元だ。
 でもどこかで今ここで生活していることを長いひと休みのように捉えているきもちもなくはなく、自分は永遠に終わることなくなにかに呼ばれるがまま呼ばれた町に足を向けてしまうのだろうなと思う。
 拠りどころのような拠りどころでないようなそんなきもちを町々に抱きながら去ることを、振り返ると寂しくなる。
 自分はそんなために旅をしているのかと、ここでまた自問自答してしまうのだけれど、わたしはそれに対してこう答える。
 寂しさのない世界も寂しいものだ、と。


※ 「今年の漢字」を発表している「日本漢字能力検定協会」を流行語の「ユーキャン」と間違えて書いておりましたので、12/14に訂正しました。すみません。
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by fastfoward.koga | 2008-12-12 23:56 | 一日一言