言霊の幸わう国

過去の人

 毎日思い出す人がいる。
 その人のことは、数ヶ月間1日も欠かすことなく、場所も時間も問わず思い出している。
 最近は、思い出してはあぁまた今日も思い出したなと思う。
 
 今日もいつもどおりの思考を辿ったあと、ただ思い出すだけの人というのはなんて寂しいのか、ということに気づいた。
 思い出したり思い浮かべたり、それだけなら特別な人ではない。ただの人なのだ。
 その人との間に起こった出来事やそれに纏わるお互いの感情、態度そして言葉。そういうものを頭の中でくり返しているのは、ああすればよかったとかこうしていればばかりで、今はもうたらればの次元ではもうない。
 そこには反省も後悔もなく、事実としての過去を巡らせている、思考が途切れたときの時間稼ぎでしかない。

 以前ここに「失恋の痛みも 日薬 3ケ月」と書いたことがあったけれど、そのときの日薬がどこまでの痛みに効いていたのか、一生懸命思い出そうとしていた。今回の感情とは似て非なるものだけれど、突き詰めてみたかったのだ。
 そのとき書いたのは、すきだった人のことを思い出すことに痛みが伴わなくなったことなのか、ただの人だと思えたことなのか、思い出さなくなったことなのか、自分がどの痛みを指していたのかが、結局どうしても見つけられなかった。

 惰性だとは言えども毎日思い出すたびに、その人に対して自分はなにを感じているのか、そこが疑問だった。
 愛情でも友情でもない、単なる情だということは言い切れるけれど、じゃあ単なる情ってなんだろうとそこでまだ追究を緩めることなく突き進むと、行き着く答えが待っていた。
 それを確認するためにさっき辞書で「情」と引くと、「①心のはたらき。 ②なさけ。思いやり。 ③異性を思う気持ち。 ④おもむき。 ⑤ありさま。(要解 国語新辞典より)」と書かれていた。
 わたしがその人に対して抱いているのは③ではなく②であって、この人ならという特定の誰かに抱くものとは決定的に違っているのだ。

 知り合って、少しずつ互いに理解を深めて、時間を共有することでなにも生まれなかったとは思っていない。ちゃんと生まれたものは抽斗にしまってある。
 でもいろんな事情でそれらは自分にとって過去となり、新しくなにも生み出すことはないと思った瞬間からきもちはすっかり変わってしまった。まさに豹変したように。

 今こんなことを考えていても、きっともうひと月ふた月と時間が経てば徐々に記憶の抽斗の奥へ追いやられてしまうだろう。
 愛しいと思っていた記憶の数々を忘れてしまう日は、きっとやって来る。でもその人のことは忘れたりはしない。風化してゆくだけ。

 思い出す、思い浮かべるだけでは物足りない。
 思い出して、思い浮かべて、その人が今なにをして、どんなことを思い、今日を明日をどんなふうに過ごしてゆくのかまで思い巡らせなければ、単なる情から1歩先には進まないのだ。
 なにごとも未来がなくては。
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by fastfoward.koga | 2008-12-17 20:31 | 一日一言