言霊の幸わう国

おかえり

 カシオが帰って来た。
 会社の飲み会帰りですでに日付は変わっていて、梅田から終電の地下鉄に駆け込んで帰ってくるような時間だから部屋の灯りを見つけたわけではないけれど、なぜかそれはわかった。
 誰も住んでいない部屋は人だけではなく、電気もガスも水道も、空気すら息をひそめて気配はまったく感じられない。無に近い空間なのだ。だから、扉を開けたらぽっかりとブラックホールが待ち受けているんじゃないかと、旅に出たあとのカシオの部屋の前を通るたびに思う。けれど今日は部屋から漏れてくるカシオの匂いを感じる。それは決して酔っているせいではないだろう。
 僕はカシオの帰宅と酔いへの自覚から、いつも以上に静かに玄関のドアを開けそして閉めた。



 その週は特にイベントごとがあったわけでもないのに、ダラダラと忙しかった。今日は絶対に早く会社を出るのだと朝拳を握り締め力強く思っていたはずなのに、どうでもいいとしか思えない仕事を頼まれ、結局毎日会社を出るのは二十時を回っていた。
 その日電車を降りたところで僕は冷蔵庫の中が空っぽだということを思い出し、二十四時まで開いているスーパーへ自転車を走らせた。ペダルを漕ぎながら、必要なものを頭の中に書き出した。烏龍茶とパン、インスタントコーヒーとタイムセールのシールのついた惣菜をいくつか。それを反芻していると、スーパーから出てくる美智子さんの姿を見つけた。
「あ、岸くん。」
 自転車を止めると、先に美智子さんから呼びかけられた。五分待ってもらえたら自転車で帰れますよ、と言うだけ言って返事を待たず、僕は眩しいほどの光をたたえる店内に飛び込んだ。リストどおりのものを籠に放り込み会計を済ませ外に出ると、美智子さんはスーパーの二階にある映画館の階段から下りてきた。
 あ、映画見るんですか?
「ううん。上映時間見てただけ。」
 僕は手を差し出し美智子さんのエコバックを受け取って、自分のレジ袋と共に前籠に入れた。美智子さんは僕とカシオが住むアパートの大家の娘さんで、隣にある実家ではなく僕らと同じアパートの二階に住んでいる。部屋は階段を上がって、美智子さん、カシオ、僕の順に並んでいる。
 今、なにやってるんですか?
「特集でね、今週末までカンヌで賞をとった映画ばっかりをやってて。いくつか見たいのがあるねんけど、仕事やし。でも『第三の男』なら見られそうやねんけど。」
 それって古いですよね。
「うん、結構ね。」
 どんな話でしたっけ、と話を促しながら、僕は自転車を回転させて表通りへ歩いた。美智子さんはその少し後ろを歩き、車道に出たところでよろしくお願いしますと後輪に跨った。
「舞台は第二次世界大戦後のウィーンで、そのウィーンにともだちに仕事を頼みたいって言われてアメリカから男が来んねんけど、そのともだちが殺されるねんね。で、主人公は真相を探り始めるっていうのが大筋。」
 確か、エビスの音楽ですよね。
そうそう、と美智子さんはあの有名なメロディを歌いながら、僕の肩に置いた手でリズムを取った。
「わたしもねちゃんとは見たことなくて。でも舞台がウィーンやから、古い時代のものでも見てみたいなと思って。」
 ウィーンすきなんですか?
「ウィーンだけじゃないけど、パリもやっぱりね。勉強に行けたらなっていうのはあるかな。」
 ケーキ職人の美智子さんは、軽やかにそう答えた。ウィーンもケーキですか?
「うん。ウィーンで有名なのはザッハトルテかな。まあ言うたらチョコレートケーキやねんけど、岸くんわかる?」
 僕は首を横に振った。
「昔ねザッハトルテを巡る争いがあって、トルテ戦争って言うねんけど。ウィーンではデーメルとザッハーていう店でしかザッハトルテは出してなかってんけど、元々はデーメルが作ったもんやってん。いろいろあってレシピをザッハーに教えたんやけど、代替わりするなかで本家と元祖みたいな裁判沙汰になったっていう話があるんよ。」
 へー、どこの国もそういうのはあるんですね。ウィーンなんて地図のどのあたりかもわかりませんけど、なんとなくそれを聞くと親しみがわきますと言うと、美智子さんはやんねーと笑った。
 バス通りを抜け住宅街の路地に差しかかると、美智子さんはそろそろ下りようかと言った。僕は少し道が上り始めてはいたけれど大丈夫ですよと、ペダルに掛けた足先から腹筋背筋両腕と順に力を入れた。僕の肩に置いた手から力の入り具合を感じたのか、美智子さんは一瞬その手から力を抜いた。でも結局は後輪に重みが加わり、数メートル進んだところで僕はギブアップですと叫んだ。
 素早く自転車から下りながら美智子さんが言ったお疲れー、ありがとうの言葉が、澄んだ空気の向こうにある冬の空に吸い込まれて消えていった。なぜだろう、冬の空は、特に夜のそれは他人行儀なほど遠く感じる。
 はあはあ言いながら吐き出される僕の息は、白く濃かった。ひと息ひと息と大きく深呼吸してその空を見上げると、街の灯りに負けずにひっそり光る星がいくつか見えていた。
「冬は星がきれいやね。ま、こんなところじゃ見えてるのもしれてるけど。」
 いつの間にか僕につられて、美智子さんも空を見上げてそう言った。そう言えば、前にカシオが四国のどっかで見た空が忘れられないって言ってました。寝袋に包まって星を見てたら、キリがないくらい流れ星が見えて、気がついたら寝てて夜が明けるところだったって。
 へー、いいなぁと美智子さんはまだ空を見たまま話すので、白い息がシャボン玉のように少し上に上がってゆっくりとけて消えていった。
「カシオ、いつ帰ってくるんやろ。」
 もう帰ってますよ。たぶん火曜日かな。
「わたし、全然気づかへんかったわ。ずっと静かやし、まだなんやと思ってた。」
 そうかそうかと、美智子さんは自転車の前籠に指を絡め歩き出した。

 いつだったか、今日と同じようにスーパーに立ち寄ったときに、窓越しに店の脇で煙草を吸っているカシオの姿を見つけた。煌々とした店内の灯りに背を向けるその肩越しに、僕はカシオ、と呼びかけた。振り返ったカシオは、どこか惚けた顔をしていた。
 おかえり。
「おかえり。」
 僕は旅帰りのカシオに、カシオは会社帰りの僕に、お互い同じ言葉を交わした。けれどカシオのテンポはどこかおかしく、僕は少し反応を待った。でもカシオはなにも言わず長い欠伸をしたあと、煙草を持っていない左手でぼさぼさの頭をごしごしこすった。目はまだ焦点が合っていない。映画? と問いかけ、階段の上のほうを視線で指すと、それには答えず徐に話し始めた。
「映画館で映画見るとさあ、たかだが二時間くらいやのにすごいタイムラグを感じひん? 見る前は晴れてたのに雨が降ってるとかその逆とか、明るかったのにすっかり陽が暮れてるとか。」
 煙草を指に挟んだまま、外に出たらいっつも世界が開けたって気がするねんと、カシオは呟いた。
「まだ世界に馴染んでないわ。」
 煙草を灰皿に落とし、じっとその手を見つめていた。
 おもしろかった? 僕はこのまま映画の話をしようか旅の話を聞こうか一瞬迷い、匙を投げた。
「おもしろかったで。」
 微妙な間のあと、どっちがと聞くと、カシオはお前はどっちのつもりで聞いてんと笑った。いや、どっちもと正直に言うと、そやなあと言いながらカシオは歩き出した。身長が一八〇センチ近くありガッチリした上体をゆらゆら揺らしながら歩くその後ろ姿を見ていたら、カシオは旅先でこんな背中をして歩いているのだろうかとふと思った。
 僕は父親の転勤でこどものころから日本中を転々としたせいで、早くからどこかの地に留まりたいという思いがあった。就職で一番の条件にしたのが転勤のないことだったくらいだ。
 けれどカシオは違う。数ヶ月バイトをしては金を貯め、旅に出る。そして旅に出ると数週間は確実に戻っては来ない。なにも告げずに出て行くので、美智子さんも僕もいつも部屋がひっそりしたことでカシオが旅に出たことを知った。なぜか僕らのほうも、行き先や日程を事前に聞いたことは一度もなかった。
 旅の途中でカシオは、背負ったバックパックの重さをどんなふうに感じ、目に映るものをどんな思いで見、そして旅をすることでなにを求めているのか、求めてすらいないのか。僕の頭の中には次から次へと、答えを想像すらできない疑問が湧いてきていた。
 
 上がっていた息も落ち着き、黙って美智子さんと自転車を挟んで緩やかな坂道を上っていった。あたりは静かで、僕が履いている革靴の踵から鳴る音がやけに響いた。美智子さんはスニーカーを履いているせいか、足音は聞こえなかった。ガシュガシュガシュ。僕は耳を澄ませ、口の中で靴音を真似して歩いた。ガシュガシュガシュ。坂を上りきったところで自分が隣にいる美智子さんの存在を忘れてしまっていたような気がして、僕は急に問いかけた。
 オーストリアと言えば、バスカヴィル家でしたっけ。
「それはハプスブルグ家?」
 僕の急な質問にも動じず、美智子さんはそう答えた。あれ、じゃあバスカヴィル家ってなんでしたっけ。
 ふたりの間に、しばしの沈黙が流れた。その先の角を曲がればアパートが見える。同じようにあと少しで答えが見えそうなんだけど、と思ったところで美智子さんが手を上げた。ハイ、美智子さんどうぞ。
「シャーロックホームズの『バスカヴィル家の犬』。」
 美智子さんの勢いに、思わず僕は正解の意を込めてパンと手を叩いた。その音にビックリした大家さんちの飼い犬チロが、塀の向こうから僕らに向かって吠えた。慌てて美智子さんが口元に人差し指を立て、僕は肩をすくめ、顔を見合わせて無言で笑った。
 そこで、チロの声を聞きつけたのか二階の真ん中の部屋の窓が勢いよく開いた。ほら美智子さん、帰ってるでしょう。部屋の灯りに照らされてシルエットになっている影は、声を出したらその大きさにまたチロが驚いて吠えるだろう。
 見上げて寒さのあまり滲んだ鼻水を押さえようとしたとき、僕は自分の鼻先の冷たさを知る。冬はまだしばらく続くようだ。
 




 ◆お題     「冬の空」 「ウィーン」 「ザッハトルテ」
 ◆出題者   「休日アポロ」 mamepanapolloサマ
 ◆mamepanapolloサマ へ
 初のご参加、どうもありがとうございます。
 1ヵ月で書き上げることを目標にしていましたが、大幅に遅れてしまいました。すみません。
 書き始める前に思うことあり、今回の「さんご」ではいろいろ試したいなといただいた「さんご」を書き始めました。
 どんな感想を持ってもらえたのか・・・。
 気になります(小心)。
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by fastfoward.koga | 2009-03-08 21:16 | さんご | Comments(2)
Commented by hanautaco at 2009-03-11 15:01
「おかえり」という言葉が好きです。
たっぷりの優しさが含まれていて、物凄い安心感をくれるから。
とくに寒空の下でのソレは、妙に温かくチョコレートのように甘いのでしょう。
カシオくんが旅に出る理由のひとつに、「おかえり」が聞きたくてというのもあるかもなんて思ってみたり。
最後、3人で「おかえり」と言い合う光景が見えてきました。
ほっこり。
Commented by fastfoward.koga at 2009-03-11 20:05
ハナウタコさん、再びこんばんは。
読んでいろいろ想像してもらえるのは、書き手の喜びです。
うっしっし。