言霊の幸わう国

雲の上

 メガネの度が合わなくなってきたことに気づいたのは、祖父の三回忌で実家に帰るために乗った特急の中だった。車窓に見える伊予灘にぽっかり浮かんだ島々の輪郭がぼやけていたので、初めは海に霞がかかっているのかと思った。けれどよく考えれば車内にある電子掲示板の文字だって読みにくく、ぽろっと、なんだわたしかという言葉がこぼれ出た。するとそこから隙をついたように宿直明けの疲労感が溢れ、思わず驚くほどの大きなため息をついた。
 駅に着いて同じ特急に乗っていた人たちとその迎えの人たちがはけてしまったら、駅前は急にひっそりとした。日曜日だというのに、なんと車も人も少ないのか。相変わらず長い休憩時間のような町だと思いながら、わたしは二泊分の荷物の入ったカバンを肩に掛け実家へと向かった。
 祖父の法事のために親戚一同が集まってくる実家は、明日の準備のために母と祖母が忙しく動き回っていた。手伝う隙もなければ、長らく使っていない自分の部屋も馴染んだ空気がすっかり薄らぎ、わたしは手持ち無沙汰でぷらりと外に出た。
 駅前では閑散とした空気を感じたものの、アーケード下の商店街では春休みが近いせいかこどもたちの姿が目についた。それを見ているうちに、うちのホテルもそろそろハイシーズンなのに三日も休みをもらうなんてなあと、今さらながら申し訳ないきもちになった。瀬戸内海に浮かぶ小さな島の小さなホテルだと言っても、来る人はやって来るものなのだ。
行くあてもなくアーケードをそれて国道に出たときに、視界の端にお城が目に入った。目的なく歩くのが苦手なわたしは、久しぶりに行ってみるかと点滅し始めた横断歩道を小走りで渡った。




両側に木々がうっそうと茂るお城までの道は、未だにわたしの一歩では大きすぎるほどの石段だ。そこを息が上がらない程度のペースで歩いていると、後ろからリュックを背負った背の高い男の人に抜かされた。
横を過ぎるとき、その人のはあはあという声が聞こえた。上半身を少し揺らしながらも大またでペースを崩さない後姿は、なにかに挑み続けているように見えた。わたしはなんとなく、漂う雰囲気からこの辺の人ではないなと思った。
石段を上りきるとまっすぐ降り注ぐ陽射しが眩しく、柵にもたれて見下ろす先には穏やかにないでいる宇和海が見えた。頂上では桜がすでに蕾を開いていて、目に映る景色は確かに季節が移り変わりつつあることを教えてくれていた。
 お城に近づくと、予想していたさっきの男の人の姿はそこにはなかった。その代わり手前のベンチに、とても懐かしい姿を見つけた。
「町田のおじさん。」
 手を振るわたしに、振り向いたおじさんは豪快に相好を崩して手を上げて応えてくれた。
「おお、小枝ちゃん。久しぶりだねえ。帰ってたのか。」
「はい。おじいちゃんの三回忌で。」
 町田のおじさんはそうかそうかと言いながら、ベンチいっぱいに広げていた水墨画の道具を少し寄せ、わたしの座る場所を作ってくれた。おじさんの手元には硯があり、墨が磨りかけの状態で置かれていた。
「ずっと描いてるんですね、絵。」
 そう言ってわたしが硯を指差すと、おじさんは下手の横好きだけどと笑った。
 町田のおじさんは祖父よりも前に亡くなった父の同僚で、わたしがまだ実家にいるときにときどきうちにやって来て父の晩酌に付き合っていた。当時ふたりの話題と言えば釣りのことばかりで、こども心に会社や仕事の話が出ないことを不思議に思っていた。
町田のおじさんは定年退職したあと、実はやってみたかったんだと絵を描き始めた。当初は水彩画をやっていた記憶があるけれど、しばらくして水墨画に落ち着いたらしいと、生前の父から聞いていた。
 おじさんは、昔から不思議な人だった。
たまにしかうちに来ないのに、それはなぜかいつもわたしがなにか決めかねたり言い出せなかったりすることがあるときで、父とおじさんが飲む席にお酒やツマミを運んだり、トイレに行こうとするおじさんと廊下であったりと、ひと言ふた言しか言葉を交わすことのできないタイミングで、必ずわたしがドキリとすることを言い当てた。
 買ってもらってすぐの自転車を壊して言い出せないでいたとき。妹を泣かしたあと。そして、高校卒業後は広島の専門学校へ行きたいと思っていたとき。そういうときに、思ってることは正直に言ったほうがいいよとか、小枝ちゃんはこれからどんなことがしたいのかな、とおじさんは唐突に言うのだ。わたしはいつもその言葉にギョッとしながらも、一方でもう観念しよう、と思い切らせてくれることにありがたさを感じていた。
 その町田のおじさんと今日会ったことを、わたしは神妙なきもちで受け止めていた。だから決して無理して飾って話そうとせず、おじさんの筆が画仙紙の上に落ちる瞬間を黙って見ていた。
滑らかに動く筆先は、わたしのきもちをどんどん緩ませた。ふいに遠くで鶯が鳴く声が聞こえ、視線を天守閣のほうにやると、石段でわたしを追い抜かした男の人が最上階の武者窓からこちらを見ていた。いや正確には、遠くてハッキリ見えたわけではないので、そんな気がしただけかもしれない。鼻先で少しずれたメガネを整えても、その人と目が合った感覚は掴めなかった。

 おじさんは人に見られていて描きにくいということはないのか、淡々と筆を動かしていた。その筆には、一瞬の迷いもなかった。絵を描くことも見ることにも興味のないわたしにはそれが不思議で、画仙紙にすでに下書きでもされているのかと、不自然にならないように角度を変えて見たりした。
 確かな時間の流れとともに、おじさんの筆はお城と桜を描いていった。完成間近になってやっと、わたしは同じように画仙紙を覗き込むリュックの男性の存在に気づいた。きっとわたしが夢中で見ているからつられてしまったのだろう。顔を上げると向こうも顔を上げ、会釈なのか照れた仕草なのかぼさぼさの頭を掻いた。
わたしは気づかれないように、その人を観察した。そしてこの人は旅をしている人だ、と思った。格好からだけではなく、その人の体から滲み出るもの。仕事柄、それは見ただけでわかるのだ。
 黙々と描いていたおじさんが筆を置き、はーっと肩の力を抜いた。そこで旅人は間髪入れずにすごいっすね、と話しかけてきた。
「描くときに迷いはないんですか?」
 語尾には関西弁のイントネーションが滲んでいた。おじさんは突然の訪問者の突然の質問にも驚かなかった。驚いたのは同じ疑問を持って見ていたわたしのほうで、おじさんは安穏とした様子で筆をゆすぎながら答えた。
「意在筆先、意は筆の先に在りって言う言葉があってね。筆先が体の一部のように感じているときには、迷っている隙はないね。」
 その言葉を、旅人もわたしも黙って聞いた。

 おじさんが道具一式を片付け終わるころには、陽は傾き出していた。ちらほらお城に上っていった人もいなくなり、成り行き上わたしはおじさんと旅人と三人で下りることになった。
 旅人はその後も、ぽつりぽつりとおじさんに質問を投げかけていた。
「水墨画で、星空って描けますか?」
 わたしは、おもしろいことを訊く人だなと思った。
君は絵を描きたいのか? とおじさんが逆質問すると、旅人は首を振った。
「描けないものはないよ。星も魚もミミズもミトコンドリアも、形があれば描ける。いや、形がなくても描けることはあるかもしれないな。」
 おじさんの言葉の意味がわかったのか、旅人の口元がふっと緩んだ。
旅人は四国に渡ってきたあと、数年前に旅をしたときに見たカルストの満天の星空を思い出していたらしい。「雲の上」と名のつくその場所に、わたしもかつて彗星を見に行ったことがある。全視界を埋める満天の星空から、怖いぐらいの星が降った。寝袋に包まりながら、背中に地面がくっついていることを常に感じていないとひゅっと飛ばされそうな気がした。
わたしはあとにも先にも、あんな星空を見たことはない。あれを、この人も見たのだ。そのときこの人はどんなことを思ったのだろう。そんなことを聞いてみたくなった。
 わたしがぼんやりしている間に、ふたりはずいぶん先を歩いていた。歩幅が合わないわたしはどんどん置いてきぼりをくらい、門のところでやっとふたりに追いついた。
 旅人にお礼を言われたおじさんは、駐車場に停めた車に荷物を積み、運転席のドアを開けたあと思い出したようにわたしを呼んだ。そしてこうして言ったのだった。
「小枝ちゃん。思ったとおりにすればいいんだよ。」
 わたしはその言葉にもう驚いたりせず、おじさんの車が国道を走り去るのを見送った。その横で、旅人も律儀に車が見えなくなるまで立っていた。
「星、また見に行くかな。」
交差点で、旅人はぽつりと呟いた。
 その夜、わたしはなかなか寝付くことができなかった。風の音が気になるのだと自分に言い訳をしながら、懐かしい天井の景色に飽きたあとはじっと目を瞑っていた。そのうち瞼の裏にオリオンやふたご座がちらちら見えた気がした。そうして、星座を追いかけている間に眠ってしまった。

 次の日、大勢の親戚を迎えた祖父の三回忌はつつがなく終了した。
母は後片付けを手伝うつもりで三日間の休みをもらっていたわたしを、そっちも忙しいだろうと帰るように促した。そして台所に貼られた駅の時刻表を見、今なら特急に間に合うからとだけ言い残して片付けに戻ってしまった。わたしはあまりの素っ気なさにためらったけれど、結局言われたとおり帰ることにした。そしてたいした量でもない荷物をカバンに詰めながら、昨日の夜、まだここには戻らないと言ったときの母の表情を思い出していた。
 昨年妹が名古屋へ嫁ぎ寂しくなっての言葉だったのだろう。あんたはこっちに戻って来られないのかと電話があったとき、暗くならないように気をつけて話す母の声がかえって重く感じた。ここへ帰るつもりがないことに迷いはなかったけれど、言い出せない時間がだんだん口を噤ませた。
 時間はまだずいぶんあったけれど祖母にも急かされ、わたしは早々にうちを出た。帰り際ふたりには、じゃあ帰るね、とだけ声をかけた。
 駅では、ざわついた待合室ではなくひとりホームで特急を待った。ベンチに腰掛けると、心地よい風に吹かれて自然と手足が伸びた。うーんとめいっぱい手も足も伸ばして口から息を吸うと、体の中に空気がたくさん入った気がした。
やけにスースーするじゃない。
声に出すと、余計スースーした。
ホームに滑り込んできた特急の準備が整ったら、わたしは一番に乗り込んだ。そして窓際の席を陣取り、静かに出発を待った。ベルが鳴り、ドアが閉まる音がして、窓の外を見ると改札に昨日の旅人の姿を見つけた。
 メガネ越しにぼやけた視線で見つめても、向こうはまったく気づかない。そのうちわたしを乗せた特急は駅からどんどん離れ、分岐点で左へと進んだ。果たして、旅人の行く末は右か左か。はたまた上か。



 ◆お題     「ミトコンドリア」 「彗星」 「墨」
 ◆出題者   「太美吉の楽書」 太美吉サマ
 ◆太美吉サマへ
 どうでしょう?
 予想を裏切れましたでしょうか?
 わたしは自分の予想を裏切って、時間がかかりすぎたなと反省です(笑)。
 遅くなってすみません。 
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by fastfoward.koga | 2009-04-13 20:20 | さんご | Comments(2)
Commented by tabikiti at 2009-04-14 09:05
コガさんありがとう。
しばらく旅に行けてないのですが
お陰様で有意義な旅ができました。
ありがとう。
旅吉
Commented by fastfoward.koga at 2009-04-14 22:23
旅吉さん、こんばんは。
こちらこそどうもありがとうございました(トラバも!)。

書きながら、わたしも長い旅に出ていた気がします。
やっとうちに帰れました(笑)。