言霊の幸わう国

プライド

 梅田卓夫著『四〇〇字からのレッスン』と山田ズーニー著『おとなの小論文教室。』を立て続けに読んだ。
 前者は大学のテキスト、後者は先日訪れた豆パン屋アポロの2階にあったものを、mamepanapolloさんから譲っていただいた。
 どちらも書かれているのは、「書くということ」について。
 だが内容は書き方について、所謂技術についてだけが書かれているのではなかった。

 書こうとするなら、考えなければならない。
 考えない頭から書くことは生まれない。

 そういうことがどちらもくり返し書かれていて、読みながら自分が最近書いている文章について考えずにはいられなくなった。
 例えるなら、今の状態は「身が入っていない」。
 言葉を綴ってはいるけれど惰性に近く、言葉に熱も思いも魂も、なんにも込めることができていない。

 4月以降徐々に書くことと向き合う中で、手癖があることも気づいてきた。
 書きやすい文章の作り。言葉の繋げ方。形容詞や比喩の使い方。
 パターン化されることで書いている自分も新鮮味を失い、書くことが悪習慣化してしまっていた。
 春から改めて文芸を学ぼうと思ったのも、そこに目が向くようになっていたからかもしれない。

 と書きつつ、ほんとうは自分の書いたものがつまらない理由がそれではないことはわかっている。
 わたしは、あるところから考えることを止めたのだ。

 すべての思考を止めたわけではない。
 頭の中でかなり重要な部分を作動させなくした。
 その一部分をフリーズさせるくらいでは、生活していく上で支障が出ることはない。
 それは楽しくなければ、辛くもない。

 考えれば考えるだけ、辛くなっていた。
 絶望と悲しみと寂しさと孤独だけが手元に残るなら、止めてしまえとなかったことにした。
 頭の中の停止部分は、いつしか開かずの間になった。

 本来動かすべきところを動かさないのは、閉じるということ。
 部屋中のスイッチを切って回り、明かりを消して、最後は扉に鍵を閉める。
 そうしてひとつの部屋の存在を消してしまうと、都合の悪い隣の部屋もそのまた隣の部屋も同じように扉を閉めて、鍵をかけしてまえばいい、そのうちなにも感じなくなる。
 初めからなにもなければ、感覚自体生まれない。

 そういう生き方は確かに辛いことを減らしたけれど、楽しいことも減らした。
 思えば、ぼんやりと波に浚われるように時間は過ぎた。
 そんな時間の中では、自分という自我は存在しない。ただの物だ。
 わたしがわたしである必要などなくなっていた。

 ここ数ヶ月、望んでいたのは誰かと会って話したいということだった。
 内からではなく外からの刺激で、新しいなにかが生まれないだろうかと期待してのことだった。
 でも、2冊の本を読んでそれよりもたくさん考えてみようと思い直した。
 わたしは、結局書きたいのだ。

 書くことに考えることはつきもの。
 書くために考えるのか、考えたことを書くのかはどちらでもいいような気がするけれど、どちらもないとそこに意味が見出せないということは理解できた。
 思い描いたものを書くために考え、思い描いた考えを書く。
 辛いのはもういやだと背を向けたけれど、ここには今まで身を削るような思いで書いたものが残っているじゃあないかと思った。
 数年前の自分にできて、今の自分ができないのは悔しい。
 数年前の自分に歳をとったからね、若いからできたんだよと言われるのはすごく癪だ。

 感じたこと、考えたこと、思ったこと。
 それぞれが生じたときの情景描写を加えて、余すことなく記しておきたいと切望したこともあった。
 ほんとうはそんなことはできっこないけれど、今できないことは承知でやってみたい、その状況に近づいてみたらどうなるか。そんなことを思い始めた。
 考えないわたしはわたしでないし、書かないわたしもわたしでない。
 と、自負するとこから始めてみよう。
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by fastfoward.koga | 2009-05-01 23:11 | 一日一言