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一陣の雨

 昼まで清々しい青を広げていた空は、三時を回るとだんだん重く厚い墨色の雲に覆われ始めた。ざっとひと降りくる。空を横目で見ながら出かける支度をしていると、四時前には雨は降り出した。
 うちにいて雨に気づくのは、いつも雨粒がベランダの屋根に落ちたときだ。雨はあっという間に視界を包み、辺り一面を水浸しにしてしまった。時に強弱をつけながらもやむ様子はまったく見せない。しまいには、あまりの勢いに窓の外は白く煙って遠くに見えるはずの焼肉屋の回転看板が見えなくなった。雷も地響きかと思うくらい大きな音を立てている。やむことを期待して出る時間を遅らせていたが、五時を過ぎてキリがないと諦めた。
 覚悟を決めて玄関から一歩外に出たとたんに雨が強まった気がしたのだが、それは気のせいではなかったはずだ。どしゃどしゃどしゃと大きな音が鳴っている。後々のことを考えて手にした、小さく折り畳めることが利点の傘の下で、わたしは肩をすくめてバス停へ急いだ。傘はできるだけ低く持って歩いていたが、うちを出て数分で雨用だと割り切って履いた黒い革靴はあっという間に湿り気を帯びた。膝あたりで裾が少し広がったワンピースの裾も濡れて色が変わってしまっていた。一歩歩くたびにむき出しのアキレス腱に、アスファルトの欠片と水しぶきが飛びつく。この濡れ始めがなんともきもちが悪い。しかしあまりそのきもち悪さを突き詰めないように、頭の中を空っぽにしてバスに乗ることだけを考えた。
 バス停に着くと、外にいるせいか雷がぐんと近くに感じた。いつもなら雷に恐れ戦いたりはしない。でもこの日ばかりは、首をぐっと持ち上げて見る空に目を見開くほどの鮮やかな閃光が走ると傘を握る手に力が入った。しかしぐっと握り締めて大きな音がおさまったあとふと冷静になり、いざというときは傘を投げ出すくらいじゃないと、と逆に手を緩めたりした。
 降りしきる雨の中道路に体を乗り出して道の向こうを見つめても、バスは一向に姿を現わさなかった。反対車線は、百メートルほど先の交差点で引っかかっている車が連なり、運転席からこちらへチラッと視線を投げかける人もいる。雨と雷が渦巻く空の下立っているわたしは、濡れねずみのように見えるのだろうか。知り合いでも折りよく通りかからないかと到底叶うはずもない願いを胸に、ひたすらバスを待った。
 その間、わたしは何度か足首の辺りをタオルで拭った。でもじっとしていても雨はアスファルトを跳ね、足にまとわりついた。靴の中に収まっている短い靴下もじとっと足に張り付いている。昼過ぎには三〇度近くまで上がっていた気温も今は湿気で濡れたように感じるせいか、二の腕の後ろや首筋が心細くなったのでカバンから薄いストールを取り出して首に巻いたが、寒気は取れず無意識に二の腕を擦っていた。
 数分おきに何度時計を見ても、バスは来なかった。雷は少し遠くに聞こえるようになり、西の空にも明るさが見えてきたが雨はまだ容赦ない。下手な演出のドラマのように、風が強く吹くと雨粒が一瞬浮き上がった。雨は降り続いて、道は混んだままで、バスは来なくて、それでも自分はこうして永遠に立っているような気がした。けれどももういらいらするほどの熱も残っていない。シャッターを閉じた店のように、わたしはただじっと耳を澄まして立っていた。
 なにかを待っているとき、自分が落とし穴の中に落ちたような気がすることがよくある。その暗さにあせって今みたいに、遠回りになるけれど逆向きのバスに乗ろうかとか、タクシーを呼んだほうがいいかとか、いろいろ考えて、挙句待ちきれずに行動して後悔することが多いのが自分だ、と己を省みていつも妙な人生論を持ち出してしまう。待つべきか待たざるべきか。こんなときにおかしなことを考えてと思う反面、事実わたしはずっとその判断が正しくできているか頭を悩ませている。
 でもその日は、傘の柄を握り締めながら、今日はもう諦めよう。ここで、例え一時間待ったとしても初めに乗ろうとしたバスに乗ろう。なにがあってもそれが答えだ。そう決めて立っていた。
 するともう時計を見ることもしなくなって久しくなったころ、バスは姿を見せた。悪びれもせず、いつもと同じ顔で。どんなに首を長くして待っていても、現れるときはこっちの気も知らずあっさりしたものだと、呆れてバスがドアを開けるのを待った。
 四つほどバス停を過ぎると、フロントガラスに当たる雨粒はほとんどなくなっていた。こんなものかとまた呆れていると、西の空には太陽のシルエットが見えた。雲越しでもオレンジ色の陽射しは、わたしの手を照らした。もうしばらくしたら、驚くような夕陽が見えるかもしれない。

 課題 夏目漱石の『永日小品』を読んで自分の『永日小品』を書いてみよう
by fastfoward.koga | 2009-07-28 19:48 | 四〇〇字・課題 | Comments(0)

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