言霊の幸わう国

書く動機

 大学で再び学び始めてから何度も目にし、耳にした言葉。
 それは、書く動機。
 エッセイでも小説でもレポートでも、書く技術の前に書く動機を求められる。
 レポートが書けないときや、ブログになにを書くか決まらないときに、わたしはふとこの言葉を思い出す。
 たいした動機もないから書くことに困るわけで、例えば課題で自分や家族について書けと言われると、のほほんとした環境でのほほんと暮らしてきた自分にはさほど強い動機が見当たらず、あたふたする。
 そこで、じゃあ自分はなぜ書こうとするのかを自問する。
 それは書くことが自分には必要だから、書くことで自分の精神のバランスを整えることができるからなのだが、じゃあやっぱり書くことがあるんじゃないかと、問うた自分に強く答える。
 書こうとする意志はあるのだ。でも動機という意思に欠ける。
 こうしてぐるぐると思考のメビウスの輪にはまると、書くことは手段ではないのかと助け舟がやって来る。
 そう、手段ならやはり目的となる確たるものがあるはずなのだ。
 でも書くことが目的なら、わたしはいったいなにを書くのだろう。

 書くという行為へのこだわりを捨てたら、書くことなど探さなくていい。
 でも毎日書かないと書く技術は衰える。
 せっかく書こうとした、いざ、というときにイメージしたように言葉が出てこなくなる。
 それは怖い。
 そんな思いをするなら、やはり毎日書いておこうと思う。
 一生懸命書くことを探すが、そうそう書くに値するようなことは起こらない。
 誰もわたしが朝何時に起きて、どんな洋服で仕事に行き、誰とどんな会話を交わし、夕飯になにを食べ、お風呂に何分入って、どんな夢を見たのか、事細かに知りたいわけがない。
 書こうとするのがわたしなら、少なくともわたしが軸になって描く世界しか言葉にできないのだが、伝えたいのは起こった出来事だけではなくその中に隠れているエッセンス的なもので、それが自分と相手との架け橋になるのだと思う。
 
 結局、書こうとするのはわたしの場合、人と繋がっていたいからなのだ。
 自分がなにを考えなにを感じ、他者がなにを考えなにを感じたのか、同意できなくても共感し共有したい。
 ときどき思うように人と関わりあえなくて全部をもういいと目も耳も塞いでしまうことがあるけれど、ほんとうは口だけは塞ぎたくないと思っている。
 届かなくても伝わらなくても、自分の内側に生まれたものは大声で言いたい。
 それを叫ぶだけでなく言葉や文章にして書き記そうとし、あわよくば誰かに届いたらいいのにと期待している。

 じたばたするように乞う、人と繋がり続けることのために、わたしは一体なにを書くのか。
 そのとき、書くことは手段でもあり、目的でもある。
 一方的に求めるだけでは決して得られない答えを探して、四の五の言わず、やはり書くしかないということか。
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by fastfoward.koga | 2009-10-13 23:14 | 一日一言