言霊の幸わう国

考える女

 自分が最近、考えていないことは認識していた。
 ここもあまり頭を使わなくていい話題を選び、思いついたままを書き、書くことを忘れないようにするために書いているようなものだった。
 あれもやって、これもやって、と頭の中はやることリストがいくつも箇条書きになっていて、考え事をしてペースを崩すのが怖いし、もったいないと思っていた。

 昨日、今度の日曜日にある最終の試験勉強のためにテキストを読み返していた。
 初めは文字を追うだけだったのが、読み進めるうちに大事なことを忘れてしまうような気がして、カバンの中から黄色いマーカーを取り出した。
 昨年の秋に1度読んだはずなのに、なぜか今回ラインを引いたところはほとんど頭に残っていなかった。
 やっぱりこういうものは何度も読み返さなくちゃいけないなと、思った。

 そのおかげなのか、今日会社のトイレで冷たい水に手をつけたとき、ふと書く動機についてひらめいた。
 自分には書く動機がないとくり返しているけれど、ほんとうはちゃんとあったのだ。

 書くという行為の前には、必ず考えるという行いがある。
 なにをどんなふうに書くか。
 脳みそのすみっこしか使わなかったとしても、考えなしには書くことはできない。
 だから所謂「文章の書き方」の本には書くテクニックだけでなく、考えることについても書かれている。
 そしてそれは、ほとんど書くテクニックの前に述べられている。

 それくらい、書くことと考えることは密接に繋がっている。
 というか、考えなければ書くことなどできないのだ。

 書くために考えるのか。
 考えたことを書くのか。
 それを、わたしは数ヶ月取り違えて思考をストップさせていた。

 考えることができないなら感じればいいと、きもちが反応するものに順応させていたけれど、それがすべて書く動機に繋がるものでもないらしい。
 少なくともわたしの場合は、考える容量を減らしてまで感覚を研ぎ澄ませても、それは思うような自分ではないし、望むものが書けるわけでもない。
 思考と感覚のバランス。
 それが両立されていないと、感受したものなど使い捨てだ。

 感じたことがどんなものなのか。
 なぜそう感じたのか。
 感じたことによって、どうなるのか。
 それを吟味して、咀嚼して、そして書くという行為で消化する。
 その一連の流れが留まらずにゆくことが、わたしの望みなのだ。
 あくまでも感覚は起点であり、時にヤマ場を作るきっかけにはなるが、オチになることはない。
 最後は絶対、自分が考えたことでしか終われないのだ。

 ときどき自分の書いたものがちゃちに思えることがある。
 でもそれでも書いておこうとしたのは、感じたことを流してしまわずに考えたことだからだ。
 逆に、そういうことしか書けないとも言える。

 わたしはよく、「思う」とか「考えた」という言葉を多用する。
 それは、わたしがある出来事に遭遇した事実を書きたいのではなく、遭遇したことで感受したものをどう噛み砕いて自分のものにしたのかを書こうとするからだ。
 だから、わたしは考えなくてはならない。

 わたしから考えることをなくしたら、価値はあるだろうか。
 自分では、ないと思う。
 考えるからわたしであって、考えなければわたしでなくていいのだ。
 ちょっと前まで書くことが自分の存在意義だと捉えていたけれど、それは違っていた。
 書くことはやはり手段であって、目的ではない。
 自分から書くことをなくしても言葉が共に消えることはないけれど、考えなくなったら言葉など不要だ。
 うすっぺらい記号みたいなものが言葉の代わりになって、生活するくらいはできる。
 でもそんな意味のない言葉の中で、自分が生きていけるとは思えない。

 わたしが書きたいのは、わたしが考えたことだ。
 そうして書いたものを誰かが読んで、こんなことを考えている人もいるんだと、その人が感じたことを始点になにか繋げていってくれたらいい。
 と、そんなことを望んでいる。
 
 劇的なことなど起こらぬ人生だけれど、頭の中は波乱万丈。
 それこそ、その物語のような思考を物語のように書けたら、じたばたするくらいおもしろいはず。  
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by fastfoward.koga | 2010-02-04 21:20 | 一日一言 | Comments(0)