言霊の幸わう国

海あり山あり 日本列島輪切りの旅  「ボーダーライン」

★7月28日(水)
 8:12 長野駅発 ⇒(信越本線)⇒ 8:55 妙高高原駅着   -笹ヶ峰周辺トレッキング-
 16:40 妙高高原駅発 ⇒(信越本線)⇒ 17:20 長野駅着   -(夕飯)-






 森の中で踏みしめた柔らかい土の感触は、今でも思い出せる。頭の中で右足を持ち上げ前に一歩踏み出せば、足裏全体から感覚が胸元までせり上がってくる。その柔らかさに受け止められたから、初めてのトレッキングでもひとり飽きもせず歩けたのだ。

 森の中を歩きながら、ほんとうに来るとは思わなかったと、森に行きたいと本気で思ったときの自分に向って言う自分がいた。
 森に行きたいといっても、初心者でトレッキングシューズも持っていない人間が行くのだ。場所選びは慎重にした。
 ネットやガイドブックで調べた結果、2時間程度で歩けるコースがあり初心者向けだと書かれていた妙高笹ヶ峰を選んだ。
 まずは、妙高高原駅前から出発するバスに乗る。初めは5人程度だった乗客も、途中のバス停であっという間に満員になった。見る限り、ほとんどが50代、もしくはそれ以上か。トレッキングには慣れた様子で、みなおしゃれとは言えないものの必要な装備はしているといった感じ。それでもわたしが1番気にしていた足元を見ると、同じように底が厚めのスニーカーを履いている人もいる。それなら大丈夫かもと、バスの中で少し安堵していた。
 終点の笹ヶ峰に近づくと、それぞれ思い思いのバス停で下車してゆく。コースは、帰りのバスの時間と体力で決定するというのはみな同じようで、車内ではどのあたりを歩くかという話題がちらほら耳に入ってきた。わたしは、事前に計画していた乙見湖のバス停で降りた。他に誰も降りないのかと思っていたら、ひと組のご夫婦が一緒だった。
「どう回られるの?」
 バス停で帰りの時間をチェックしていると、奥さんから声をかけられた。
「あんまり決めてないんですけど。時計周りにするか、逆周りにするかかなって。」
「そうねえ。どっちがいいかしら。」
 そんなわたしたちの会話には見向きもせず、旦那さんがすたすたと歩き始めたので、奥さんはそのあとを追いかけていった。わたしは、同じコースを気にしながら歩くのはいやだなと、タイミングをずらすためにしばらくバス停の前に立っていた。すると、すぐ横の休憩所の脇から男の人が顔を出した。
「地図持ってます?」
 男性は休憩所の管理をしている人らしく、カラー刷りになった周辺の地図を渡してくれた。
「ダム湖のほうへ行かれるんですか?」
 その問いに、ただ反応して「ハイ」と言ってしまったら、入口はあそこですよと、さっきのご夫婦が歩いていったのとはまったく逆の方向を指差された。適当なことを言ってしまったと思ったものの、あとには引けなくなりお礼を言ってダム湖のほうへとりあえず向った。
 歩きながらもらった地図をよく見てみると、ダム湖のほうにも計画していたのと同じくらいの2時間程度のコースがあると書かれていた。しかも「笹ヶ峰夢見平遊歩道」となっている。遊歩道ならちょうどいい。昼食をとるレストハウスとは違うコースを歩くことになるけれど非常食も持ってきているし、少しくらい遅くなっても大丈夫だろうと、とりあえず行ってみることにした。
 休憩所から駐車場を横切り、細い階段を下る。するとそこにはダム湖の乙見湖の姿があった。水面には、山と雲が映っている。遮断するものがなく、どこまでも広がりを見せる景色に、先は長いというのに思わず立ち止まってのんびりしてしまう。そんなわたしの後ろを、小学生たちが2、3名のグループになって、時間差で遊歩道へ向っていった。オリエンテーリングでもしているんだろうかと思いながら、わたしもそのあとに続いた。
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(乙見湖)

 乙見湖を背にし、目の前の急な階段を上りきると森が現れた。そこでそれまで受けていた陽射しが木々に遮られ、サングラスはいらなくなった。そこから400メートルほど歩くと、分かれ道に出た。八の字に似たコースになっているこの遊歩道を、前の小学生たちがみな反時計周りで歩いているので、それに倣って進んでいった。
 地図は折りたたんで手に握りしめ、1本道だというのに何度も広げて確認する。そこには大まかな所要時間と距離が書かれているだけで、GPSが着いているわけでもない。でも自分が今どのあたりを歩いているのかが気になって、ついつい何度も見てしまう。
 それに初めは、通せんぼされたり声を掛け合ったり、小学生たちと前後しながら歩いていたから、たとえ姿は見えなくてもどこかに人の存在を感じながら歩いていたのが、途中からまったく声がしなくなった。八の字の交差点でわたしは奥へ進んだけれど、こどもたちは手前を曲がってひとつの輪を描くコースだったらしい。
 賑やかなこどもたちの声を微笑ましく聞きながらも、森の音に耳を傾けたいと思っていたから、そこで少しほっとしてもよかった。でもひとり選択した道には「クマに注意」と書かれた看板が立てられていて、クマよけの鈴もなにも持っていないわたしは突如不安に襲われた。
 クマに会うなんてという思いの一方で、過信して人に迷惑をかけるのはいやだなと、なんとなく手を叩いたり、リュックのベルトをカチカチ鳴らしてみたりした。でもこんな小さい音が遠くにいるクマに聞こえるわけもない。途中からは周囲を意識しながら、森の中の音や匂いや光や柔らかさを感じて歩いた。
 人がいる気配はない。今ここで道をそれるようなことがあっても、誰も気づかないだろう。さっきの休憩室の人もわたしが帰ってきたかなんていちいち気にしていないだろうし。そんなことを思いながら、踏み出す1歩1歩に集中する。
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(笹ヶ峰夢見平遊歩道)

 森の中にいるだけでマイナスイオンを感じるわけではない。でも、ひとりで黙々と頭の中に思考を巡らせていると、いつもと違う回路があることに気づく。
 時間が進んでいるようで進んでいない世界に入り込んだなら、もう少しこうしていたいと思うだろう。時計の針が進んでしまうと、どうしても疲労感が滲み出る。喉も渇くし、お腹もすく。だから時間の観念が若干歪んだところでこうして考えごとをして歩けるなら、いつまでも考えごとをして、いつまでも歩いていられる気がする。
 なにごとにおいても目的を考えてしまう性格なので、トレッキングをしていても急ぎ足になっている。気を許すと、コース1周が目的になってしまうのだ。でも今日は違う、今こうしていることが目的なのだ、と軽く自分に言い聞かせ歩を緩めた。
 そうすると、まっすぐ前だけ見ていたのが少し周囲に気を払える。空気、匂い、光、感触。森の中にいるというと感じたあとに、京都での日常について思い出してみる。
 以前ならここにいることが不思議だとかなんとか思っただろう。でも今は、自分が辿った道筋がちゃんと後ろにくっついている。どこでもドアみたいに突如やって来たとは思わない。どこにいても自分なのだと、お腹のずっと奥で、つまようじくらいの長さの芯みたいなものが存在を主張する。
 この森を抜けて歩き終えても、変身するように劇的な変化があるわけではない。でも今こうして柔らかい土を踏みしめて歩きながら見たもの、聴いたもの、考えたもの、思ったものは、確かに何層にも積み重なってゆく。
 感覚と感情を記憶という名のパッケージにする作業を丁寧にやっていれば、いつか思い出せる。それをなにかの拍子にふと抽斗から取り出したとき、そのこと自体が力を持たず背中を押してくれなくても、背景となって自分を浮き上がらせてくれるんだと思う。

 2時間半のコースを2時間弱で歩き終え、再び乙見湖に戻った。
 それだけ歩いても、心配していた膝やふくらはぎの痛みや疲れは感じなかった。でも階段を降りて休憩所へ戻ろうとして数時間ぶりにアスファルトに足を下ろしたとき、驚いた。その硬さに突如足が棒になったように感じたのだ。
 わたしは、そんなところを毎日歩いている。そのことに違和感を覚えた。そして直接浴びる直射日光と足元からくる照り返しに、忘れていた暑さを思い出した。
 急に、自分の居場所がクッキリとした。
 足元のアスファルトをじっと見つめる。さっきまで歩いていた、トトロが出てきそうな森はすぐ後ろにある。こういう見えない境界線を、これからも、何度も、わたしは越えてゆくのだ。
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by fastfoward.koga | 2010-09-10 21:34 | 旅行けば