言霊の幸わう国

今までの人生で大切な旅

 週末、来月のスクーリングの案内が届いた。
 そこに、講義の冒頭に自己紹介をかねて発表してもらうと、事前の小さな課題として3つの質問が書かれていた。
 そのうちひとつ、「今までの人生で大切な旅を一つ選んでください」という文字を読んで、すぐさま自分の旅を反芻した。

 そりゃあもちろん、旅にまつわる話ならいくらでも。
 あそこにもここにも、見たものがあり、触れたものがあり、出会い話した人がいて、口にしたものも、たくさんある。
 思い出そうとしたら、記憶のフィルターをメガネのようにして、目の前にいくつも映像が過ぎる。

 そこで、急に先日読んだ星野道夫の『旅をする木』の一節を思い出した。
 ある人との会話で彼の名を口にしたら、「コガさん、すきだと思うよ」と言われて正直どうだろうと思っていたけれど、この一節に辿りついて、確かにそうだと思ったのだ。

「やがてぼくは北海道の自然に強く魅かれていった。その当時、北海道は自分にとって遠い土地だった。多くの本を読みながら、いつしかひとつのことがどうしようもなく気にかかり始めていた。それはヒグマのことだった。大都会の東京で電車に揺られている時、雑踏の中で人込みにもまれている時、ふっと北海道のヒグマが頭をかすめるのである。ぼくが東京で暮らしている同じ瞬間に、同じ日本でヒグマが日々を生き、呼吸をしている・・・確実にこの今、どこかの山で、一頭のヒグマが倒木を乗り越えながら力強く進んでいる・・・そのことがどうにも不思議でならなかった。考えてみれば、あたりまえのことなのだが、十代の少年には、そんなことがひっかかってくるのである。自然とは、世界とは、面白いものだなと思った。あの頃はその思いを言葉に変えることは出来なかったが、それはおそらく、すべてのものに平等に同じ時間が流れている不思議さだったのだろう。子どもながらに、知識としてではなく、感覚として世界を初めて意識したような気がする。」 

 最近旅をして気づいたことがある。
 目の前を通り過ぎてゆく人を眺めながら、自分がその土地に暮らす人たちが日常生活を送っているところを見たいと思っていること。

 列車を降り改札を抜けて歩いてゆく人。
 農道の真ん中で立ち尽くす人。
 こどもと話しながら自転車をこぐ人。
 大きくて頑丈なカバンを膝に置き、居眠りする人。

 その人たちが、今夜どのうちに帰り、どんなふうに明日朝を迎えるのか。
 そんなことをひとり想像する。
 そして、意識を自分が住む町京都に飛ばし、あそこで暮らすわたしが知りもしなかった世界で、この人たちは暮らしているのだという思いが頭にも胸にもぎゅっと刻まれる。
 そうすると、名もしらぬ人たちが急に愛しくなる。
 中には、罪人や悪人がいるかもしれない。
 でも誰もがそこで生き、いつかは死んでゆくのだと思うと、自分にはもっと見ておかなくてならないもの、そのために行かなくてはいけないところがあるような気がしてくる。

 生きることには時間が付きもので、生きている分だけ記憶も積み重なる。
 その記憶はたとえ本人が忘れてしまっても、町のあちこちに刻まれ残る。

 以前ここに、自分が旅をするのは記憶を求めているからだと書いたことがある。
 それは、思い出を振り返るためという意味ではない。
 自分が書いたものを引用するのもおかしな気もするけれど、そのとき書いたものを引用しよう。

「わたしが旅をするのは、記憶を求めているからだ。

 それは決して、思い出ではない。
 あくまでも記憶。
 それは、自分のものではないのかもしれない。
 別に、誰かの記憶でもいいのだ。
 旅の中で、これだ、と思う時間を、自分も他人も、過去も未来も飛び越えて、手にすること。
 わたしはそれを、求めている。

 自分の過去の思い出という焦点が定まっているわけではないから、旅をすることで記憶を探しているわけではない。
 わたしがしているのは、もっと漠然としている。
 旅先で、両手を広げて飛び込んでくるものをただ待つとはなしに待っているだけだ。

(中略)

 誰かの記憶をなぞる旅。
 誰かの思いとともにゆく旅。
 自分の不確かさを確かめる旅。
 自分のルーツを辿る旅。
 誰かとともに新しいものを発見しにいく旅。

 誰かと自分の記憶を交差し、重ね、慈しみ、包み込む。
 そういう旅をする中で、今自分が感じていることが今なのだと思えるようになった。」

 旅先で、わたしの鼻は、そんな記憶にピクリと反応する。
 だから、なんでもないようなところで立ち止まって、自分のなのかそこにいた人のなのかわからなくなった記憶に衝かれて、急に感慨深げなきもちになるのだ。
 デジャブとも憑依とも違う、その感覚。
 それをわたしは、旅で何度も味わってきた。

 今までの人生で大切な旅をひとつ。
 まだこれからも旅を続けるわたしの答えは、決まっている。 
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by fastfoward.koga | 2010-10-18 22:06 | 一日一言