言霊の幸わう国

不思議の国

 わたしの記憶は、抽斗にしまわれているといつも思っていた。
 想像の中のその抽斗は、古い薬局にあるような、まるいぽっちが縦にも横にもたくさん並んでいるものだ。
 表に、中身を知らせるラベルが貼ってあるわけではない。
 けれどわたしはその中にあるものを、なんとなく分類している。
 この記憶はこのあたり、あの記憶はあのあたり。
 当たりをつけて、ぽっちを掴んで抽斗を開けてみるのだ。
 それは、時には当たり、時にははずれる。
 開けて違うとわかることもあれば、どのぽっちを掴んでいいのかもわからないこともある。
 むやみやたらに開けられない、と思い込む奇妙な生真面目さに囚われるのがわたしなのだ。

 来客用のスリッパの音を立てながら廊下を歩いていたわたしは、鍵のしまった窓に鼻をくっつけながら、こう言った。
「調理室の匂いがする」
 すると、建て替えた母校を案内してくれていた先生も、同じ時間を過ごした友人たちも、みな口を揃えて言った。
「するわけないやん」
 でも、匂いは確かにしたのだ。
 少し湿気た、野菜と、なにかを煮込んだような残り香。
 わたしはそれを調理室の匂いと記憶し、どこにしまったのかも忘れてしまうようなところに長い間閉じ込めていた。
 わたしたちが通っていたころと、位置はすっかり変わってしまっていた調理室。
 でも匂いは同じ。あのころと変わっていない。
 話題はすでに向かい側の教室の1年生の話になっていたけれど、心のどこかでもう1度、その匂いをちゃんと鼻を鳴らして嗅いでみたいと思っていた。

 わたしが通っていた中学は、ここ数年の間に建て替えられていた。
 マラソン大会のあと、飲みながら昼食をと予約したお店に向かうには早すぎ、中が見たいと恩師のひとりにお願いをした。
 先生は数年前にかつていた、わたしの母校に戻ってきていたのだ。
 快諾してくれた先生に連れられ、十何年ぶりかに足を踏み入れた中学校。
 校舎の位置関係は変わらないものの、グランド側にあった校舎は少し前にせり出していた。
 そう言えば、ちょっと狭くなった気がする、と心の中で思った。

 ベビーブームだったわたしたちからはぐんと生徒数が減ったせいで普通教室の数は少なくなり、今では冷暖房が完備がされているらしい。
 かつて教室が並んでいたところには階段ができ、ガラス張りになったその場所からはグランドが見えた。
 バックネットの位置が変わったと教えてくれる先生の話に耳を傾けながら、誰もいないガランとしたグランドに記憶を重ねていた。
 手前左に陸上部、その奥にソフトボール部、バックネット前は野球部で、残りがサッカー部。1番後者から遠いところにはテニスコートとバレーコートがあった。
 それも今では、各クラブの場所取りは違っているらしい。
 ふーんと頷きながらも、意識は遠いところにあった。

 校内はといえば、職員室と保健室の位置は変わっていなかった。
 けれど、図書室と音楽室は別のところに移っていた。
 校内を4人でぐるぐる回っていたら、徐々にわたしの記憶も回り始めた。
「気温が9度以下にならないと、購買部の前に灯油が出なかった」とか。
「廊下の水道脇のフックがある場所に、すっぽり収まるようにして座り込んでいた」とか。
「グランド側の自転車置き場は、わたしたちの学年が入学するときに作られた」とか。
「体育館の入口の前に高飛び用のマットを置いていたら、いつもサッカー部に占領されていた」とか。
 するすると、中学時代にごく普通に見てきたことが口をついて出てきた。

 でもほんとうは、もっとたくさんの記憶が脳に蘇っていた。
 始業時のチャイムの間際に混み合った自転車置き場とか。
 カーテンを閉めたときの教室の色とか。
 中庭側にあるベランダの手すりの白っぽくてざらついた感じとか。
 廊下にごったがえす人の多さと、その幅とか。
 そこから見た景色とか。
 砂場のよそよそしい空気とか。

 抽斗のぽっちを掴むまでもなく、記憶は観音とびらが開け放たれたように溢れてきた。
 時々夢に出てくる中学校という場所は、変わってしまっていても変わっていないような気がした。
 実は変わっているようで変わっていないのは、自分なんじゃないかと思ったりもした。

 冬の日曜の学校は、どこかにさらわれて連れていかれたような場所だった。
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by fastfoward.koga | 2012-02-01 22:35 | 一日一言