言霊の幸わう国

友情とは

 少し前、友情について考えていた。
 友情って、書くと普段の会話で使わないので空々しい気もするけれど、書きたいのはやっぱりそのことだから仕方ない。

 きもちが弱っていると、ついついともだちに同意を求めたくなる。
 わたしは日常会話も理詰めで話してしまうことが多いので、そういうときは特に相手に「わかるわかる」と言ってもらいたくて、いつも以上に熱弁をふるってしまう。
 ほんとうは、起こった出来事の1から10までを聞いてほしいのではなく、そのとき自分が思ったことを伝えたいだけなのに、相手に理解をしめしてもらいやすいように誇大表現してしまうのだ。

 少し前になるけれど、10月23日付けの朝日新聞の読書欄の「ポケットから」に気になる記事が載っていた。
 読書欄なのでもちろん本が紹介されていたのだけれど、本よりも作家重松清の言葉に思わず惹きつけられた。
 
 記事は、「『友人』の条件は、意見や利害の一致なのか?」という言葉から始まっていた。
 そして、「『友だち同士の会話は、なにも賛同の相槌だけで進められるものではないんだ』ということを伝えることも必要だろう。」と文章は続いてゆく。

 友情が、友だちとケンカをしたり、クラスのみんなとは仲良くしないといけないということが大前提で、肯定や賛同のみで成立するものであるとしたら、相手が自分と違うことが相手を排除しいじめにつながるのではないか。だとしたら、相手と自分の違いに気づき、相手と話し合うことを恐れてはいけないことをこどもたちに伝えなくてはならない、と重松清は書いていた。

 わたしはこの記事を読んで、読んだ当時はひとりのともだちの顔を思い出していた。
 でも、ほんとうは、思い出すべき顔は自分だったと今は思う。

 どんな話にも耳を傾けてくれるともだちに、感謝しなくては。
 わたしはみんなの「受容」によって、生かされている。
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by fastfoward.koga | 2005-11-20 11:35 | 一日一言