言霊の幸わう国

目印

 10代の終わりから、ずっとわたしの前を走っている人がいた。
 いつのころからか、その人が2年先を生きていれば、自分は迷うことなく歳を重ねられると思うようになっていた。
 目印になってくれていた人。
 その人のことが、わたしはずっとすきだった。

 もう連絡をとらなくなって、2年近くになる。
 何度もふられたことのある人なので、電話するのはいつも勇気がいった。
 すきだという思いが変化し始めたくらいから、少しは話すことに慣れてはきたけれど、いつも気合を入れて電話をするのは最後まで変わらなかった。

 古い日記には、その人のことが山ほど書かれていた。
 何度すきだと言ってもふられるので、あきらめようとしたことは1回や2回ではない。
 よし、今度こそは、と書きながら、数ヵ月後には、やっぱりこの人じゃきゃ、と書く。
 数年間、そのくり返しだった。

 そのとき必死で精一杯だったのは過去の自分なので、やり方がまずいなと思っても嫌いにはなれない。
 ただ、今は笑える。

 なにが笑えるかというと、彼の誕生日に書いたバースデイカードのどこまでもまっすぐな愛の告白と彼と電話で話したあとの高揚感を綴った言葉。
 その表現が、なんとも言えない。
 幼くて、一生懸命で、もう二度とこんなうれいしことが自分にはやって来ないと思っているきもちが溢れていた。
 そして、今初めて気づいたけれど。
 もしかしたら、ほんの一時期だろうけど、彼はわたしのことをすきだったんじゃないだろうか。

 もう会うことも、話すこともない人。
 彼はわたしの目印でいてくれたけれど、わたしは彼にとってのそれにはなれなかった。
 やっぱり、自分じゃ役不足だったのだ。
 それは紛れもない事実。

 見上げるとそこにある同じ空の下に暮らす限り、彼には幸せでいてほしいなと願う。
 わたしができるのは、もうそれくらいしかない。
 そんなことを願いながら、わたしはわたしで今度こそ別の誰かの目印になろうと思う。
 日記を書いていたころの自分のように、必死で精一杯なことをめいいっぱいしようと決めたのだ。
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by fastfoward.koga | 2006-03-28 01:00 | 一日一言