言霊の幸わう国

戻れない

 まだ20歳ぐらいのころ。
 すきなバンドのライブが見たくて、東京へ出かける予定を立てていた。
 出発する日の朝、ハハがあまりの具合の悪さにぐったりしていた。
 声を出して呼ぶことができず、壁を叩いている音にわたしが気づいたのだ。ハハの様子には、一瞬言葉を失うくらい驚いた。
 しばらくすると落ち着き、たいしたことはないとハハが言うので、チチに任せて気になりながらも新幹線に乗った。

 火曜日、うちを出て、京都駅へ向かう電車の窓の景色を見ながら、なぜかそのときのことを思い出した。

 もう戻ってこられないような気がしていた。
 戻ったとしても、なにかが違っているんだろうなと思った。

 そんなきもちのまま、ずっと目的地に着くまで本を読んでいた。
 村上春樹の「スプートニクの恋人」。
 到着まであと少しというところで、読み終えた。

 最近の、本に対するわたしの嗅覚は、すごいのだ。
 自分のきもちに添う本を、寸分の違いなく選んでいる。
 我ながら、驚く。

 きっとわたしは、この小説のその言葉を、読んだときに一緒に見えたものを、もともと胸の中にあった思いを、忘れないだろう。
 いや、忘れることなんてできないと確信している。

 文庫本では、272ページの4行目から273ページまで。
 わたしのきもちを揺さぶった言葉がそこにある。
 
 果たして、戻れないのは場所なのか自分なのか。
 うちに帰ったとき、自分がどんなことを思い、どんなことを感じるのか想像がつかない。
 帰ってからの自分がどんなふうなのかも、だ。

 そんな。
 わからないことがおもしろいと、思えるようになってきた。 
 戻れないことにも、興味がわいてきた。
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by fastfoward.koga | 2006-05-12 22:04 | 一日一言