言霊の幸わう国

山頂への道程

 さっき書き上げたものを、クリックひとつで消してしまった。
 もう同じことを書くエネルギーも情熱も感じないので、違うことを書くことにする。


 わたしは書くときも話すときも、言葉の選び方には注意する。
 それ敬語を正しく使おう、というようなことではなく、今この瞬間にふさわしい言葉はどれだろう考えることだ。
 だから、人から間違っていると指摘されたり、自分で気づいたりすると軽く落ち込むことがある。
 いつだって言葉をうまく操りたいのだ。
 
 本を読んだり、人と話していると、おもしろい言葉の選び方をするなと思う人がいる。
 それは、ある流れの中で、石にでもつまづくように言葉が浮き出すような。
 自分では埋めることのできなかった隙間に、しっくりとなにかが埋まるような。
 そんな感じがする。
 
 今読み終えた藤代冥砂の「クレーターと巨乳」は、途中でいくつもの石につまづき、いくつもの隙間が埋められた。
 言葉なのに、言葉以上のものを持つ言葉。
 そんな感じがした。

 タイトルひとつとってもそうだ。
 表題もそうだし、「君の芸術が終わってしまう前に」や「太陽のバブル」なんかは、タイトルをページの隅に何度も確認しながらどんな物語なのかと考えて読んだ。
 そして読み終えて、もう1度タイトルをじっと見た。
 じわっと広がる言葉のシミ。
 そういうことは、わたしにとってはとても稀なことなのだ。

 写真家だからなのか、文章が映像的だった。
 でも描写がくどいということもなく、ただ淡々と、どこまでも淡々と言葉が綴られていた。
 写す人が書くと、こういう言葉が並ぶのかとじんとした。

 ブログを書き始めて、2年。
 少し言葉慣れしていたところがあったのだけれど、実のところ自分はまだ富士山の麓にいる程度だなと思った。
 まだまだ学ぶべきことはある。
 死ぬまでに頂上へ辿りつけたら、まあいいか。
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by fastfoward.koga | 2007-02-25 20:20 | 一日一言