言霊の幸わう国

回帰

 8年ぶりに、河瀬直美(著名は仙頭直美)「萌の朱雀」を読んだ。
 映画は見ずじまいだけれど、ページをめくるたびに、奈良の山奥、緑豊かな景色が瞼の裏に見えた気がした。

 そこは、静かな世界だった。
 感動的で激しい台詞があるわけでもなく、勢いで物語が進んでいくでもなく、そこにある日常が静謐に描かれていた。

 読みながら、日常について、考えた。

 数日間その本を手にし、ページをめくる手をふいに止め、車窓を流れては消える景色を眺めた。
 大きな川が流れ、その向こうに濃い緑の山。
 通勤途中で見るその風景が、自分が原風景だと最近思うようになった。
「萌の朱雀」で描かれていた風景は、それに等しいように思えた。

 毎日、1日も欠かすことなくくり返すこと。
 そんなものが自分にはあるのかと自問自答した。

 わたしは、寝起きする時間も、出勤時間も、会う人も、話す人も、毎日違う。
 そういう日常を望んでいるところは多大にあって、今こうしているのだということはわかっている。
 1日だって、同じ日はない。
 今日は昨日とは違うし、明日は今日と違っている。
 違っていることをよしとし、わたしは毎日を過ごしてきた。

 でも、と、ふと立ち止まった。
 そう、立ち止まったのだ。

 物語の中に描かれる日常は、澄んだ水に太陽の光が反射したときのようにきらきらしている。
 主人公みちるは、ばあちゃんと母の早起きは尊敬に値すると言う。
 いとこの栄ちゃんは、吊橋をふたり乗りでもスピードを落とさずに渡り切ることができ、山仕事のおじさんはいつもすれ違いざまに「いよーい」と片手を上げて微笑んでくれ、父は、毎朝山から引いている湧き水で感謝するようにいとおしげに顔を洗う。
 そして、皆で囲む食卓。

 決して、特別なことはない。
 毎日、当たり前のこととして描かれる挿話。
 それが、とても、うらやましくなった。

 気づくと、わたしはいつも動いたり、角度を変えたりして見えるものがないかと目を凝らしてばかりいた。
 見たことがないものを見たかったし、感じたことのないものは自分の行動範囲を広げないと手にできないと必死になっていた。
 でも今は、毎日見ようとしなくても目に飛び込む景色を見て、ここから感じるものはないのかと考えたりする。

 今年の誕生日、決めたことがあった。
 今年は新しいものを欲しがるのではなく、今あるものを大切にしようと。

 飽きたから、合わないから、と捨ててしまうのは簡単だ。
 ものによれば、すぐに新しいものを手にすることも難しくはない。
 大人になって、わたしはずいぶん高飛車で一人前のような顔をするようになった。
 たいしたことないくせに。

 と、そんな反省もしたところなので、今は手の届くところにあるものにもっと手を触れて慈しみたいと思う。
 撫でて撫でて撫でて撫でて撫でて、としつこくしていれば、いつかは光ってわたしの日常もきらきらし始めるかもしれない。
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by fastfoward.koga | 2007-09-28 23:33 | 一日一言 | Comments(0)