言霊の幸わう国

一筆書き

 昨日仕事で電話をしたら、相手先の男の子が風邪をひいていた。
 彼はいつもハキハキとしていて、特段なんでもない会話でもこちらを笑顔にしてくれる。
 その子が、鼻声で電話口に出て、時折鼻をずずずと啜りながら応対してくれた。
 話しながら、最後にそのことに触れようと思っていた。
 用件がすんで電話を切ろうとする直前に、思っていた通りにわたしは彼に声をかけた。

「風邪ですか?」
「あ、わかりました?」
「お大事にね。」

 と、電話を切った。
 あれだけ鼻を啜っていたら、誰でも気づくよと彼の言葉に小さく笑った。

 20時で仕事を終えフロアを出るとき、隣の事業部の人にも声をかけた。
「お先に失礼します。」

 ノー残業デーで早々と退社する人が多い中、ひとりだけその人は残業していた。
 少なくとも、あと30分は仕事をするのだろう。
 部分的に電気の消されているオフィスは、人がいなくなると広く感じる。
 なんとなく後ろ髪をひかれながらエレベータに乗り、外に出ると雨が降り始めていた。
 一緒に外に出た上司に断り、わたしは再びエレベーターに乗った。
 入口近くにある傘を取るだけ。
 でもタイミングよく、その人はコピーをとりに自分のデスクを離れ、通路にあるコピーの前に立っていた。
 目が合った。
 でも、今度はなにも言えなかった。

 使えない奴だなと自分を戒め、エレベーターホールに戻った。
 しばらくどうしようかと考えたけれど、結局中には戻らなかった。
 戻ったところで、出なかった言葉はもう搾り出すこともできない。

 そんな寂しさを埋めようとして手にしたものは、また寂しさだった。
 これまた役に立たねーなあ、とひとりごちた。


 肝心なときに、気の利いた言葉を口にできる人に。


 今日は朝から雨だった。
 9時になったらピタッと止まないかと、何度も空を確認した。
 が、そんな都合よくいかず、傘を広げて出かけた。

 空からは細い針のような雨が降り、途中何度も傘の必要性を確認しながら歩いた。
 電車では扉のすぐそばのシートに座り、ここ数日夢中になっている文庫本を読んでいた。
 ちょうど今日の天気と気分に合っていた。
 いくつめかの駅に停車したとき、ふとページから目を逸らし、また元に戻すと、左のページの下の真ん中あたりに小さな黒いシミができていた。
 なんだろうと近づけて、扉の外を見て、細い雨がそこに落ちたのだと理解した。

 久しぶりに足を運んだそのお店は、静かだった。
 淹れてもらったチャイを飲みながら、お店に置かれた本を何冊も引き出しては戻し、引き出しては戻し、しながら読んだ。
 店内では、穏やかな人の話し声。
 本を手元に置きながらも、それだけでは飽き足らず、ぼんやりと本棚の背表紙を眺めていると、先日やっと読み終えた須賀敦子の名があった。
 その出会いに、世界にいくつも張り巡らされている繋がりを見た。


 昨日湧き上がってこなかった言葉は、いつか口にできるかも。
 相手は違うかもしれないけれど、それでもいいや。
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by fastfoward.koga | 2008-04-24 23:48 | 一日一言 | Comments(0)