言霊の幸わう国

宇宙へ放浪の旅をする

 最近ずっと、ぼんやりしている。
 休みの日もほとんど出かけないし、かと言ってうちにいてもこれといったことはしていない。

 ただテレビをつけっぱなしにして掃除機をかけたり、昔読んだ本を読み返したり、同じ雑誌を何度もめくったり、昼寝したりしているだけ。
 ゴールデンウィーク中の代休をとったり、年休を消化したりと休みもたくさんあるけれど、1日うちから1歩も出ない日も少なくない。
 そんなふうに時間を過ごす合間に、ときどきこんな毎日を例えるならと質問を投げかけては、ぼんやり以外にないなと何度も同じ答えを返していた。

 わたしは、ひとつのことに気をとられやすい性質だ。
 気になることがあると、他のことが手につかないとまではいかなくても、疎かになりやすい。
 物事の優先順位のつけ方も、うまくないのもきっとあるのだろう。
 今も気がかりを気がかりのままにし、なんとなく冴えない、それを疎んじもせず毎日をまんじりと過ごしている。

 ただ不思議なもので、そのどんよりとした毎日を今じっと我慢をしているのではない。
 ひとつ山を踏んばって乗り越えただけあって、今は来るべきときが来るのを待っている感じがする。
 以前のように自分を不安に陥れて、その不安に溺れることもない。
 ぐるぐる回る洗濯機の中を見てればいいのに、思わず手を突っ込んでしまう、というようなことはしなくなったのだ。

 明確なスタートもゴール地点も決めないまま、ゆらり思考を巡らせていても、1日は確実に終わる。
 その揺らぎなさに、自分の淡さを照らし合わせ、逆に時間に身を委ねても大丈夫だと心強さを覚えた。
 ぼんやりしていても、迷ってはいない。
 迷いさえしなければ大丈夫、と毎晩思っていた。
 かなりの軽さでもって。

 今日、会社帰りの電車の窓から夕陽を見た。
 雲がかかり、その陽はぼんやりしていたけれど、眩しさは感じられた。
 その陽の中で、ふと帰りは本屋に寄ろうと思いつき、自動ドアをくぐった。
 とりあえずと1冊の雑誌を手にしたら、棚の本が次々目に飛び込んできた。
 タイトルや表紙が上滑りせず、探しているわけでもないのに流している視線が止まって、手が伸びた。
 そうして静かに、心の中で呟いた。
 開かれてきた。

 白い床の、本棚に囲まれた通路で、ほわっと扉が開く感覚。
 そして、それを見て自分が開く感覚。
 月に何度も本屋に足を運んでいても、毎回感じられはしない。

 うちに帰ってから、待ちきれず着替えながら本を開いた。
 そのうちの1冊に、鐘のように余韻をひいて響く言葉を見つけた。
 それは、石津昌嗣の「関西ルインズ」に書かれていた。
 ・・・はずなのだけれど、今いくらページをめくっても見つけることができなかった。
 あれは幻だったのか?

 彼は、関西のあちこちにある遺跡(ルインズ)を写真に収めるために東京からやって来た。
「情を移籍させ、遺跡探しの旅を始め」るために、関西に移り住んだのだ。
 プロフィールには、3年間海外を放浪したことも書かれていた。
 その身軽さと、相反する真面目さに好意を持った。

 わたしも放浪してみたい。
 10年後の夢を、放浪だと言ったらおかしいだろうか。
 そんなことを書いていたら、ぼんやりしているのも頭の中の宇宙を放浪することに似ている気がしてきた。
 ひとつの場所を拠りどころにせず、先へ先へと進むこと。
 Uターンなしの、一筆書きの進路。
 
 ぼんやりしてても、わたしにはまだ先へ続く道がある。
 靴が合わない、歩き疲れたと言っている場合ではない。
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by fastfoward.koga | 2008-06-01 22:40 | 一日一言 | Comments(0)