言霊の幸わう国

旅跡  Ⅱ ものさし

 旅の最中、友を補充するためにあちこちの町で何度も本屋に立ち寄った。
 そのうちの1軒で、ひとり旅を薦める女性誌を見つけた。
 ひとり旅をし、ひとりの時間を持つことで自分を磨きましょう、というのがテーマのようで、わたしはページを捲りながらふーんと小さく声に出した。
 
 ひとり旅と自分の時間。
 その繋ぎにふと頭をもたげ、考えた。
 旅をしたからといって、自分の時間が持てるようになって、充実するというものでもないのにな。
 と思ってから、雑誌を元の場所に戻した。

 旅の地を後にし、うちにだんだん近づいてきたあたりからか、いやうちに着いてからか、自分の中の芯がぐらついていることに気づいた。
 正しいと思うこと、相手を思うこと、やりたいこと、やるべきこと、将来のこと、周囲の人のこと、我を通すということ、プライド、欲。
 波のように何度もくり返しやってくる問いに、我に返ると気力も体力も奪われて、疲れてしまっていた。
 ただの旅の疲れでは決してない、問いに対して真摯に向かっても向かっても答えが出せないことでもない、それ以上立ち向かうことも逃げることもしない自分への疲れだった。


 立ち止まると、常に考えること。
 正しさとはなにか。
 それに答えられないと、いつも立ち尽くしてしまう。
 そうやって思考は留まったまま、足を前に出し、電車に乗ったり、階段を上ったり、ベスパに乗ったりしているうちに、自分が答えそのものではなく、答えの正しさを測るものさしを探していることに気づいた。

 ものさしは赤かったか、黒だったか。ペンケースに入ったか、抽斗に入れなければならなかったか。プラスティックだったか、木だったか、竹だったか。折れたりしていなかったか。
 様々な形状のものさしを頭に描きながらも、掴むべきものさしの姿は結局思い浮かべられなかった。

 ものさしがなければ、身動きがとれなくなる。
 どっと湧き上がる感情すらも自分にとっての正しさがわからないと、相手も自分も傷つける怖さから、表現することをためらってそのまま押さえつけてしまう。

 そうしていたら、いつか胸を掻き毟ってのた打ち回って壊れる日が来るだろう。
 ずっとそう思ってきた。

 
 世間でよく言われること。
「旅をする = 自分の時間が持てる = 自分を見つめ直せる = 充実する」
 さっきの雑誌に書かれていたことも同じだ。

 果たして充実感の味わえる旅とは、そんなファーストフード的なものなのか。

 少なくともわたしにとって、旅は楽しさだけでない。
 孤独感だって味わうし、慣れのない空間で時間を過ごすことはどこか修行のようにも思えることがある。
 ただしそのとき感じる孤独感は、みんなは誰かと一緒になのに自分はひとりだと自分が思うことに対して感じるそれではなく、ある地点で人はひとりで生まれてひとりで死んでゆくのだと(例えその過程で多くの人と関わり合うことができたとしても)、そこまで辿り着いて感じられるそれなのだ。

 飛び火のように思考がぐるぐる回り、それはいつものことでも、ものさしを手にしていないとそう考えていることすら迷いの種になる。
 不安の種は土に蒔いて育てる気になれても、迷いは触れる気にもならない。
 
 旅は、決して即効性を持って誰にでも充実感を与えてくれるものではない。
 自分を知って、迷うことだってある。
 わたしのように、足元を掬われてぐらぐらにもなる。
 楽しいだけなら、それは旅ではなく旅行なのだ。


 でも、書いていて最後に思った。
 こうなることを予想して旅に出たんじゃないのか、と。
 そして、たかが「旅」でこうも考え込むわたしという人間を、わたしはもう嫌いにはなれないのだな、と。

 一刻も早くものさしを探すしか、今は道はない。
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by fastfoward.koga | 2008-08-05 21:42 | 一日一言