言霊の幸わう国

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我ニ返ル

 旅に出たわけでもないのに、ブログを書かなかった。
 ブログを始めてからずっと前回書いた日のことは気にしていて、間が空かないようには注意を払っていた。
 だからたまには書く必要のない言葉を残したこともあるし、でもそれも今の言葉のひとつかと自己解釈していた。
 でもこの5日間はどうも書く気にならず、書くことも思い浮かばなかった。

 なにも起こらなかったわけではない。
 変わらない毎日も、そんな毎日に飽きていたことに気づく出来事も、長い長い夢も、1秒の時間を余すことなく埋め尽くされていた。
 この数日はその時間が流れてゆくのを、通過列車を眺めるように見ていた。
 お風呂のお湯の中で掌をグーパーグーパーしてみても、手にはなにも残らなかった。

 考えることも長続きせず、書くこともままならない。
 それを危機的状況だと感じるべきなのかと思ってみたけれどどうもピンとこず、こんなこともあるだろうと湖に浮かぶボートになってみた。
 ほんとうのところ、抗ったり、足掻いたりする気力があるかどうかすらも確認するのも邪魔くさかったのだ。
 

 突然話は変わるが、髪を伸ばすようになってからそのことを話題にされることが多くなった。
 久しぶりに会う人には決まって驚かれ、いかに自分の髪が短かったのかをそのたびに思い出していた。
 
 耳がすっぽり隠れるくらいの長さのマッシュルーム。
 それが今の長さ。
 以前に比べればドライヤーの長さも、手入れの手間もかかっている。
 ちょっと面倒に思うこともあるものの、ギリギリ耐えられるラインを保っているし、気に入ってもいる。
 でもときどき、頬にかかる髪を払いのけたとき無性に切ってしまいたくなることがある。

 どうしてだろう、昔から髪が長くなると隠し事をしている罪悪感に捕らわれる。
 鏡を見ても、自分はそこにいるのにどこか遠くへやってしまっているような気になるのだ。

 今朝も出かける気はなかったけれど、ひととおり髪にドライヤーをあてた。
 昼すぎに鏡を覗くと、左サイドにくせが出ていた。
 耳の上から後ろへ髪を撫でつけてみる。
 すると懐かしい長さの自分が現れる。
 でも、今切るのはいやだなと思う自分がいた。
 なにがどうして髪を伸ばしたということはないのに、もう戻りたくないと思うきもちが胸にあるのだ。


 数日間の流されるだけのうだうだした状態は、どんなことで解消されるのか、期待していたところもあった。
 そういうとき待ってしまうのは、たいてい劇的なことだ。
 いつまでたっても、少女マンガみたいなことを想像してしまう。

 今日は朝起きたとき、予定もなにもない1日を早送りして、昨日と同じように書かない時間を過ごすのだろうと予想を立てた。
 掃除をし、アイロンをかけ、マンガを読み、ネットを見たり、テレビを眺めるだけ。
 でもその中で、ある人の顔を見たら書く気になった。
 頭の中に言葉が浮かんだ。
 話したこともないその人が、自分らしい顔をしていたのを見たからだ。

 あぁそうか、わたしもそういう顔をしていればよかったのだ。
 そう気づいたら、彷徨った魂が我に返ってこの体に戻ってきた感じがした。

 いつにない、長い放心状態だった。
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by fastfoward.koga | 2010-02-28 21:25 | 一日一言 | Comments(2)

やっぱりすき

 無性にただ楽しんで読める本がほしくなり、昨日会社の近くの古本屋さんに立ち寄った。
 久々に店に足を踏み入れると、以前とはレイアウトが変わっていた。
 文庫本などのスペースが小さくなっていたので少し戸惑ったけれど、すぐに目についた本があった。

 1度棚から抜き出しぱらっと捲る。
 ひと回りして気に入ったものがなかったらこれを買おうと一旦棚に戻し、いやどんな文章なのかちょっと読んでみようとまえがきを読み、また棚に戻した。
 ひと通り目の前の棚を見てから、気になってまたその本を手に取った。
 結局そのままその本は手離さず、うちへと連れて帰った。

 帰りの電車では途中の駅までつり革を握り締めたまま、もう1冊買っていたミステリーを猛スピードで読んだ。
 うちに着いたところでは5分の3くらいまで読んでいたので、ブログを書いたあと読みきった。
 そして久しぶりに娯楽本を読んだ高揚感のまま、本命の1冊を開いた。

 出だしから吹き出すような、軽くて平坦で、でもとても読みやすい文章。
 本の後ろに記されていた経歴と、第1章で書かれた生い立ちから、飾らずに文章を書く人なのだとわかった。
 著者がそれまで辿ってきた時間や道筋や経験が、文章に表れていたことにとても好感を持った。

 ぱっと見でおもしろい本を選んだなと自画自賛しながら、表紙から改めてページを捲り直した。
 そこで「装画 伊藤存」という文字を見つけ、飛び上がるほどうれしくなった。
 そりゃあ、ぱっと見でも惹かれたはずだ。

 本の内容もさることながら、自分がすきなものを別の形で出会ってもすきだと思えたことが単純にうれしかった。
 それだけで、雲が流れ青空が目の前に広がった。


追記 : 読んだ本は、千松信也の『ぼくは猟師になった』です。
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by fastfoward.koga | 2010-02-23 23:05 | 一日一言 | Comments(2)

嘘をつく

 そわそわしている。
 誰かと一緒にいると話題を探して、今日のこと、昨日のこと、一昨日のことを頭の中に巡らす。
 でも相手に話すにふさわしい話題は見つけられず、目の前にあるなんてことないことを口にする。

 仕事中、小さな声で歌を歌っている。
 ハナウタより少しスケールが大きい感じ。
 隣の席の課長にも、前に座っている先輩にも聞こえていないけれど、間違いなく声に出して歌っている。
 でも右手にマウスを握り締め、ハナウタを歌いながらなんてことなく仕事をしている自分をほんの少しすごいなと思う。
 こんなところに集中力があるとは。

 胸の中には確実に数日前までなかったものがあり、でもそれはまだ形になっていないような、煙すらでもないような、水分でもないし、ただ気配だけを感じている。
 ぼやんとしたそれは、見ようとしても見ることはできず、動物園の空っぽの檻みたいにそこに存在する条件だけがきれいに並べられている。

 誰かと一緒にいたいような、いなくてもいいような。
 話したいことがあるような、ないような。
 泣きたいようで、強くなりたいような。
 そういうひとつひとつを秘密にしておきたくて、でも大声で言ってみたい気もする。

 恋をしたときのようだ。
 ベスパをガレージに入れているときにそう思った。
 
 あーあー、そうだったらよかったのに。
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by fastfoward.koga | 2010-02-22 21:09 | 一日一言 | Comments(2)

燃費

 オリンピックに『バガボンド』にと、吸い込むものが多くて消化不良。
 感受しすぎて、心身ともに磨耗しているのか、ぐーぐー寝ては夢ばかり見ている。
 体の中に蓄積されたものが、するりと吐き出せない毎日。

 こういう燃費は、悪いほうがいい。
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by fastfoward.koga | 2010-02-21 22:29 | 一日一言 | Comments(0)

大人買い

 本屋のカウンターに32冊もレジに差し出したのは、初めてだ。

 一気に持って帰れるか、とりあえず本棚から32巻抜き出してみて、これなら大丈夫だと判断した上での行動。
 お会計はさすがに時間がかかり、後ろで待っている人に申し訳ないきもちと、ちょっと恥ずかしいきもち、でもやっと読める! というきもちを入り混じらせながら、じいっと店員さんの手元を見ていた。
 これだけの量を一体なにに入れてくれるのかと思っていたら、お店のロゴが入ったいつもの袋ではなく、素っ気ない真っ白のレジ袋ふたつに入れてくれた。
 わたしはそれを両手に提げ、生活用品を大量買いした人のような顔をして、少し離れたところに停めていたベスパまで歩いた。

 それがおとといのこと。
 2日連続で、夜は部屋に籠もって、andymoriの『ファンファーレと熱狂』をエンドレスでかけながら、『バガボンド』をひたすら読んだ。
 明日が早いからやめよう、もうこの1冊でやめよう、と思いながらも伸ばす手を引っ込められず、昨日も今日も寝不足だ。

 さすがに今日は早く寝る。
 1回じゃ読みきれないことも多いし、気になるところがたくさんあるから読み返したいけど、寝る。
 もうまぶたが、閉店のお店のシャッターのように下りてしまう。

 そうそう、気になると言えば、今はオブジェのように堆く積まれたこの32冊+αのこのマンガたちは、いったいどこへしまえばよいのだろう???
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by fastfoward.koga | 2010-02-18 20:14 | 一日一言 | Comments(2)

おいてけぼり

 ときどき、昨年の誕生日にもらった日本地図を広げる。
 最近はずっとちらつく場所がいくつもあるから、適当に開いたページからそこまで、じいっと春を待つようにページを捲ってゆく。
 あの町とこの町はこの道で繋がっているとか、あの山はこんな場所にあるのかとか、知っている場所と知らない場所を繋ぎ合わせて、ページの上にさらに地図を描く。

 今日もそんなことをしていたら、胸がざわざわした。
 旅に出たくてうずうずするとも違う、呼ばれていると感じるのとも違う、新しい感覚。
 少し、鼓動が早くなった気がした。

 旅は、いつもひと筆書きがいい。
 放射線状に伸ばすより、自分の思いや感覚や記憶を目印のように落としながら、延々と歩く。
 そういうのが、いい。

 例えば後ろ髪引かれて元の場所に戻っても、それはそれ。構わない。
 迷走して同じとろこをぐるぐる回っても、巡るたびに見えるものは違うのだ。
 同じものを求めていたって、それはやっぱり初めてではない。
 色を重ねるように、白い紙にはその度記憶がのせられてゆく。

 ベッドの上にほったらしにしていた地図を、ケースにしまい、いつもの場所へ戻した。
 厚みがあるせいでひとりでもしゃんと立つ地図を見て、ふと思いついた。
 さっきのざわざわは、閉じた地図のどこかをすでに旅している別のわたしにおいてけぼりにされたざわざわなのかもしれない。
 仕事もせずにひたすら記憶の石を落として、今ごろわたしはどこを歩いているのだろう。
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by fastfoward.koga | 2010-02-15 22:16 | 一日一言 | Comments(0)

ウイウイウイスキー

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 ウイスキーはほとんど飲んだことがない。
 ないのに、誘われてサントリーの山崎蒸留所の工場見学に行ってきた。

 土曜日の午後、JRの山崎駅から山崎蒸留所へ歩いていると、ふんわりとお酒の匂いがいした。
 蒸留所は、遠くからでもよくわかる目立つ茶色い建物で、今までずっといろんな電車の中から見ていた。
 その建物が見えていないのに、ウイスキーはすでにその存在感をあらわにした。

 1時間ごとに設定されている見学コースは、意外や意外、人気があるようで大勢の人がその始まりを待っていた。
 全員で50人くらいだろうか。それをふたグループに分け、仕込み、発酵、蒸留、貯蔵の順に作業工程を順に見せてもらう。
 その場所その場所で香るアルコールの匂いが違い、それだけできもちよくなった。

 ウイスキーについての知識など、皆無だった。
 シングルモルトがひとつの蒸留所で作ったウィスキーのことだということも、樽の種類によって味や香りが変わることも、それをブレンダーと呼ばれる人が混ぜ合わせてひとつのウイスキーとなることも。
 なんにも知らなかった。
 貯蔵庫には、年号の記された樽が高く積まれ、ひっそり息をひそめて出番を待っている。
 そうしていつか共に眠った、でもどの樽かもわからないウイスキーとひとつになるのだ。 

 工場見学の最後は、お楽しみの試飲。
 山崎のおいしい水で作られた氷がウイスキーグラスにたっぷり入った、ハイボール。
 時間制限いっぱいまで、山崎蒸留所で作られた「山崎」と、山梨蒸留所で作られた「白州」を飲み比べた。
 
 そのあと案内されたショップは、大賑わい。
 工場見学は無料だけれど、みなサントリーの商売のうまさにやられていた。
 何周も何周もそう広くないショップをぐるぐる回っていたら、村上春樹の『もし僕らのことばがウィスキーであったなら』を見つけた。
 本を手に、ああやっとこれが読めるのだと思った。

 そして調子に乗って買った、「山崎」と「白州」の10年物(180ml)。
 いつ封を切るか。
 それが問題だ。
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by fastfoward.koga | 2010-02-14 21:24 | 一日一言 | Comments(8)

 日曜日の夜、同級生が亡くなったとメールが届いた。
 中学のとき同じクラブだった男の子だった。
 
 連絡先も知らないし、みんなで集まるとき以外に会ったことはなかった。
 でも最初にメールをくれたともだちに返信するメールが、なかなかうまく打てなかった。
 しかも肝心なことをなんにも書かずに送ってしまった。

 町を突然襲った竜巻に飲み込まれたようだった。
 渦の中で、ぐるぐるぐるぐる引っ張られている気がした。
 電話をし、メールが届き、電話がかかり、ともだちに会い、メールを送信し。
 数時間の間に、頭はついていっていないことを自覚しながらも、ひとりひとりそれぞれやらなくてはいけないと思ったことをこなしていた。

 みな、信じられない、と口にした。
 わたしも実感など湧いてこなかった。
 誰もがお通夜というひとつの現場に立ち会えば、これがほんとうのことだと認められるかもしれないと思っていた。
 でも遺影を見ても、棺の中の顔を見せてもらっても、少なくともわたしはよくわからなかった。

 お通夜のあと、何人かで夕飯を食べようと近くのファミレスに入った。
 ひとりひとりがパズルのピースを持ち寄って、この数日間に起こったことを整理した。
 ひとしきりため息と沈黙の時間を過ごしたら、話題は自然に学生のころの話になった。
 あまりに馬鹿な話ばかりで、わたしは「あほちゃう」、「なに言うてんの」と口を挟んだ。
 そういえば昔も、口癖のように同じことを言っていた気がした。

 誰ひとりアルコールは口にしなかったけれど、誰もなかなか帰ろうと言い出せなかった。
 帰ってからもアドレスがわかっている者同士は、一斉送信でメールを送り合った。

 日曜の夜、なにもすることがなくなってしまったら、ひゅっと中学のころのことが頭に浮かんだ。
 それはもう遠くて、古いドラマの映像みたいに思えた。
 確かに自分が経験したことなのに、ふわっと飛んでいきそうだった。
 その夜も、次の日の夜も、亡くなったともだちが夢に出てきた。
 火曜日の朝は、ずっと棺の中で目を閉じていたともだちの顔が何度も思い出された。
 昔と変わっていないわけはないのに、変わっていないと感じた、わたしの知っている彼の顔だった。

 休めばよかったと後悔しながら会社に行き、告別式の時間はぼんやりパソコンの時計を見ていた。
 もともと数年に1回会う程度だから喪失感などないに等しいはずなのに、どうしてこんなに気が重いのかと考え続けた。
 そうして、何度もみんなの間を行き交ったメールの中に、自分が書いた言葉で気がついた。
「飲み会したら、ひょっこり顔出しそうやな。」

 そうか、もう会えないというのはそういうことなのだ。

 お通夜の席で、何度も心の中で「ほんま、なにやってんのよ」と突っ込んだ。
 これもわたしがよく言ってた言葉だ。

 時間が止まったり、戻ったり、ゆっくりになったり。
 時差ぼけみたいな1週間だった。
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by fastfoward.koga | 2010-02-12 22:33 | 一日一言

現在地とその先

 最後の単位修得試験が終わった。
 あとは、課題と作品を入れた封筒に封をして明日送るだけ。
 それで今年度の勉強は終了だ。

 おととい、年度当初立てた学習計画を見直していたら、テキスト科目であと1単位あれば来年卒業できたことがわかった。
 目標を高く立て過ぎていたせいで、全然足りていないと思い込んでいたのだ。
 計算してなあんだと思ったけれど、卒論のことなど考えもしていない今、それは無理な話かと考え直した。

 この1年、大学に入ってわかったことがよっつある。
 
 ひとつは、自分の読書傾向にはかなり偏りがあったということ。
 ふたつめは、考えずに読む癖がついているので、大事なものは何度も読み返さないと頭に入らないということ。
 みっつめは、感覚に頼って、ある種カンで書いていること。
 そしてよっつめは、自己評価と他者評価にさほどの差はないということ。

 読み癖書き癖があるのは承知していたけれど、それがどういうところで、読むこと書くことにどんな影響を及ぼすのかまでは考えもつかなかった。
 己を知ることは、怖ろしい。
 でも、楽しくもある。

 走り出したら、ゴールが気になって当たり前。
 自分は何キロ走るのか、ゴールまであとどのくらいあるのか、自分の走る速さは、どのくらいのペース配分で行けば走り切れるか。
 ただがむしゃらに走るのではなく、そういうことを考えながら走るのが今の自分のやり方だろう、と声高らかに言いたい。誰に言うでもなく。

 1年目は今ある己の力量を量り、現在地を知った。
 来年は、そこから絞り出せるだけ絞ったときになにを生み出せるかが試される年。
 悲鳴を上げるくらいでないと、やりがいはない。
 さあ、明日から休まずやるべし、やるべし。
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by fastfoward.koga | 2010-02-07 19:48 | 一日一言 | Comments(2)

考える女

 自分が最近、考えていないことは認識していた。
 ここもあまり頭を使わなくていい話題を選び、思いついたままを書き、書くことを忘れないようにするために書いているようなものだった。
 あれもやって、これもやって、と頭の中はやることリストがいくつも箇条書きになっていて、考え事をしてペースを崩すのが怖いし、もったいないと思っていた。

 昨日、今度の日曜日にある最終の試験勉強のためにテキストを読み返していた。
 初めは文字を追うだけだったのが、読み進めるうちに大事なことを忘れてしまうような気がして、カバンの中から黄色いマーカーを取り出した。
 昨年の秋に1度読んだはずなのに、なぜか今回ラインを引いたところはほとんど頭に残っていなかった。
 やっぱりこういうものは何度も読み返さなくちゃいけないなと、思った。

 そのおかげなのか、今日会社のトイレで冷たい水に手をつけたとき、ふと書く動機についてひらめいた。
 自分には書く動機がないとくり返しているけれど、ほんとうはちゃんとあったのだ。

 書くという行為の前には、必ず考えるという行いがある。
 なにをどんなふうに書くか。
 脳みそのすみっこしか使わなかったとしても、考えなしには書くことはできない。
 だから所謂「文章の書き方」の本には書くテクニックだけでなく、考えることについても書かれている。
 そしてそれは、ほとんど書くテクニックの前に述べられている。

 それくらい、書くことと考えることは密接に繋がっている。
 というか、考えなければ書くことなどできないのだ。

 書くために考えるのか。
 考えたことを書くのか。
 それを、わたしは数ヶ月取り違えて思考をストップさせていた。

 考えることができないなら感じればいいと、きもちが反応するものに順応させていたけれど、それがすべて書く動機に繋がるものでもないらしい。
 少なくともわたしの場合は、考える容量を減らしてまで感覚を研ぎ澄ませても、それは思うような自分ではないし、望むものが書けるわけでもない。
 思考と感覚のバランス。
 それが両立されていないと、感受したものなど使い捨てだ。

 感じたことがどんなものなのか。
 なぜそう感じたのか。
 感じたことによって、どうなるのか。
 それを吟味して、咀嚼して、そして書くという行為で消化する。
 その一連の流れが留まらずにゆくことが、わたしの望みなのだ。
 あくまでも感覚は起点であり、時にヤマ場を作るきっかけにはなるが、オチになることはない。
 最後は絶対、自分が考えたことでしか終われないのだ。

 ときどき自分の書いたものがちゃちに思えることがある。
 でもそれでも書いておこうとしたのは、感じたことを流してしまわずに考えたことだからだ。
 逆に、そういうことしか書けないとも言える。

 わたしはよく、「思う」とか「考えた」という言葉を多用する。
 それは、わたしがある出来事に遭遇した事実を書きたいのではなく、遭遇したことで感受したものをどう噛み砕いて自分のものにしたのかを書こうとするからだ。
 だから、わたしは考えなくてはならない。

 わたしから考えることをなくしたら、価値はあるだろうか。
 自分では、ないと思う。
 考えるからわたしであって、考えなければわたしでなくていいのだ。
 ちょっと前まで書くことが自分の存在意義だと捉えていたけれど、それは違っていた。
 書くことはやはり手段であって、目的ではない。
 自分から書くことをなくしても言葉が共に消えることはないけれど、考えなくなったら言葉など不要だ。
 うすっぺらい記号みたいなものが言葉の代わりになって、生活するくらいはできる。
 でもそんな意味のない言葉の中で、自分が生きていけるとは思えない。

 わたしが書きたいのは、わたしが考えたことだ。
 そうして書いたものを誰かが読んで、こんなことを考えている人もいるんだと、その人が感じたことを始点になにか繋げていってくれたらいい。
 と、そんなことを望んでいる。
 
 劇的なことなど起こらぬ人生だけれど、頭の中は波乱万丈。
 それこそ、その物語のような思考を物語のように書けたら、じたばたするくらいおもしろいはず。  
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by fastfoward.koga | 2010-02-04 21:20 | 一日一言 | Comments(0)