言霊の幸わう国

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歌う

 先々週の土曜日、夜うちで「僕らの音楽」をちら見した。
 レポートが途中なのが気になり、やっぱりと思い直して録画してテレビを消した。
 翌日、その録画を再生したら、突如懐かしいKANの顔が画面に映った。
 その日のゲストの秦基博とコラボレーションで、これまた懐かしい『まゆみ』を歌っていたのだ。

 当時この曲は確か三ツ矢サイダーのCM曲で、サビに「サーイダー」というコーラスが入っていた。
 特別KANのファンでもなんでもないのだけれど、妙にこの曲は耳に残り、ぽつりぽつりと思い出しては歌っていた。
 それが何10年ぶりかでテレビで聴き、今では気づくとヘビーローテーション並みに仕事中に歌っている。

 歌いながら、あぁなんてふにゃっとした頼りがいのない男なのだと思う。
 曲の1番最後が「こんなことしか言えないぼくを許して」という歌詞なのだけれど、許しを請う男ってどーよと小さく憤慨しながらも、でもこういう男はほっとけへんねんよなあと思ってしまう自分に首を振ったりする。
 
 今日も、打ち合わせに電話にメールにと、デスクでなかなか落ち着いて仕事ができない合間をぬって、ハナウタ以上歌未満くらいのボリュームで『まゆみ』を歌っていた。
 これはもう、全曲歌詞を暗記して歌いたいくらいだ。
 意味はないけど、そういうばかばかしいことをしたくなった。

 ちなみに最近気づいたが、わたしは酔うと必ず平井堅の『Pop Star』を歌っている。
 なんでかなー。


 


 CMもあった。
 you tubeは、ほんとなんでもあるねー。


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by fastfoward.koga | 2010-10-27 22:15 | 一日一言

9月の巻

(テキスト)
・池澤夏樹   異国の客
・沢木耕太郎  彼らの流儀 
・荒木陽子・荒木経惟
          東京日和
・池澤夏樹   きみのためのバラ
・星野道夫   旅をする木 
・湯川豊     須賀敦子を読む ※


 あー、先月は事前課題と参考図書しか読んでいないと気づいた自分にがっかりして、そのままアップするのを忘れておりました。
 遅ればせながら、9月に読んだ本です。
 
 先週末、ベスパの定期点検のためバイク屋さんへ行ったところ先客がいて、夜までかかるけどいいかなあと店長さんに言われました。
 腕の時計を見ると、時刻は12時前。
 どっちみち3~4時間は買い物をするつもりだったので、大丈夫ですと店をあとにしました。
 その後、買い物が思ったより早くすみ、どうしたものかとほんの少し思案して、本屋で1冊の文庫本を購入してときどき行くカフェに向いました。
 そこで1時間、文庫本の半分くらいを一気読み。
 土曜の午後でしたがお店が込み合うことも騒がしくなることもなく、心地よく本を読み進められました。
 そのあと用事をすませ、それでもまだ早いかなと、タリーズでさらに40分。
 途中お店からもういいよーと携帯に電話があったことにも気づかず、続きが気になるけれど、というくらいのページ数を残して席を立ちました。

 帰り道、ベスパを運転しながら、あー、やっぱり本を読むって楽しい! と思いました。
 いつもは通勤電車の中か、寝る前か、休みの日によし読むぞと決めて本を読んでいますが、たまに外でお茶しながらもよいものです。

 ちなみにその日読んでいたのは、吉田修一の『パレード』。
 映画化されているのは知っていましたが登場人物の何人かが全然イメージと違う俳優さんが演じていて驚きました。
 いやいや、先入観なく読めてよかったです。
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by fastfoward.koga | 2010-10-27 21:42 | 本の虫

言葉の輪に飛び込む

 昨日本屋に寄り道して、『BRUTUS』を買ってきた。
 最新号は、「せつない気持ち。」特集。
 そうそうこれはせつないよなあとか、ふーんそうなのかと、ひらひらとページを捲った。

 最近、わたしがせつなさを感じたことと言えば。
 卒論研究の草稿を書くためにひろい読みした島本理生の、『ナラタージュ』と『波打ち際の蛍』のクライマックスからエンディングにかけて。
 これは何度読み返しても、胸がひりひりしてベッドに突っ伏してしまう。
 そして昨年末からちびりちびり聴き続けている、フジファブリックの『若者のすべて』。
 大人買いした、いくえみ陵の『潔く柔く』の全13巻。
 いつも市長選で落選しているおじさんが赤いジャンパー姿で街頭演説する姿。
 木皿泉脚本のドラマ『Q10』のセリフのいちいち。

 1度にたくさん思い出そうとすると、秋の夜長にはせつなさがせつなすぎて駆け出してしまいそうになる。
 体には、よくない。 

 でもいつも、「せつない」という言葉を聞いて思い出すことがある。
 それは、山田詠美が編集した『せつない話』(光文社文庫)のあとがきに書かれていた「せつない」に当たる英単語はたぶんない、という言葉だ。
 もう10年以上も前に読んだその言葉をわたしはずっと忘れずにいて、思い出すたびにちょっとした優越感に浸っている。

 今回も同じように、特集の中でいろんな人が語る「せつない」を読みながらそのことを思い出していたら、やっぱりあった。
 タイトルもドンピシャ。「英語で『せつない』ってどう言いますか?」というページだった。
 内容は、翻訳家の柴田元幸氏とニューヨーク出身の作家のロジャー・パルバース氏が「せつない」という言葉と「せつない文学」について語っているのだけれど、読み始めてすぐに、ああそうかと妙に納得する柴田氏の言葉に行き当たった。

「よく『英語には”懐かしい”という意味の単語がないから、これは日本に独特の感性だ』とか言われたりしますよね。でも、厳密に考えれば英語の『happy』という言葉に100%対応する日本語だってないわけで。」

「happy」という単語は、すっかり日本語に定着していると思っていた。
 けれど、わたし(たち)が自分(たち)の思いを表現するために使っているのはあくまでもカタカナの「ハッピー」であって、英語を自由に操る人たちが同じように使う「happy」とはどこか違っているのかもしれない。
 そして同じようなことは、おもしろいことに日本語同士でも起こりうる。

 ときどき相手がまともなことをごく普通に話しているのに、耳に入ってきたとたんに言葉がしゅるっと融けてしまうことがある。
 どうしてこの人の言葉はわたしの胸に響いてこないのかと、適当に相槌を打ちながら考えてみるのだけれど、おそらく相手とわたしの言葉に込める思いや感情の種類に違和感を覚えていることが要因なのだろう。
 そういうときわたしは、その言葉、あなたとわたしの中では意味がちょっと違ってるんだなあなんて内心思いながら、相手の目を見て頷いている。
 ひどい話だ。
 でも逆に、差異を認識した上でそこを詰めることができたときは、ぐんと相手に近づく気がする。

 数日前、名古屋でcayoさんとasntbsさんに会ったとき、「とっきんとっきん」という言葉と「やっとかめ」という言葉を教えてもらった。
「とっきんとっきん」は尖ったものの様子を表わす言葉で、「やっとかめ」は「八十日目」と書き、久しぶり=80日経たないうちという思いが込められているそうな。
 どちらも名古屋弁で、ネイティブカンサイジンのわたしにはそこに詰まった言葉のほどよい重さにはピンとこないのだけれど、言葉の響きや謂れを教えてもらうと小さく胸が躍った。
 言葉というものが持つ、本来の姿がちらりと垣間見えたのだ。

 その夜、やっとかめにならないうちにまた、というメールを交し合ううちに、その言葉が呪文のように思えてきた。
 たぶんふたりとは違うステップにいるのだろうけれど、自分なりにしっくりくる感じがした。

 その感覚にわくわくし、もらってきた「とっきんとっきん」の木が中央に配されたポストカードを会社で使っているスケジュール帳の表紙に挟んでいたら、今日打ち合わせの途中で指をさされた。
 顔を上げると、そこには名古屋出身の先輩のうれしそうな笑顔。
 わたしは無言で、うんうんと笑顔を返した。

 せつなかろうが、とっきんとっきんだろうが、やっとかめだろうが、言葉と感情が合致した瞬間。
 それは、トランポリンで跳ねるような感じがする。
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by fastfoward.koga | 2010-10-22 21:42 | 一日一言

今までの人生で大切な旅

 週末、来月のスクーリングの案内が届いた。
 そこに、講義の冒頭に自己紹介をかねて発表してもらうと、事前の小さな課題として3つの質問が書かれていた。
 そのうちひとつ、「今までの人生で大切な旅を一つ選んでください」という文字を読んで、すぐさま自分の旅を反芻した。

 そりゃあもちろん、旅にまつわる話ならいくらでも。
 あそこにもここにも、見たものがあり、触れたものがあり、出会い話した人がいて、口にしたものも、たくさんある。
 思い出そうとしたら、記憶のフィルターをメガネのようにして、目の前にいくつも映像が過ぎる。

 そこで、急に先日読んだ星野道夫の『旅をする木』の一節を思い出した。
 ある人との会話で彼の名を口にしたら、「コガさん、すきだと思うよ」と言われて正直どうだろうと思っていたけれど、この一節に辿りついて、確かにそうだと思ったのだ。

「やがてぼくは北海道の自然に強く魅かれていった。その当時、北海道は自分にとって遠い土地だった。多くの本を読みながら、いつしかひとつのことがどうしようもなく気にかかり始めていた。それはヒグマのことだった。大都会の東京で電車に揺られている時、雑踏の中で人込みにもまれている時、ふっと北海道のヒグマが頭をかすめるのである。ぼくが東京で暮らしている同じ瞬間に、同じ日本でヒグマが日々を生き、呼吸をしている・・・確実にこの今、どこかの山で、一頭のヒグマが倒木を乗り越えながら力強く進んでいる・・・そのことがどうにも不思議でならなかった。考えてみれば、あたりまえのことなのだが、十代の少年には、そんなことがひっかかってくるのである。自然とは、世界とは、面白いものだなと思った。あの頃はその思いを言葉に変えることは出来なかったが、それはおそらく、すべてのものに平等に同じ時間が流れている不思議さだったのだろう。子どもながらに、知識としてではなく、感覚として世界を初めて意識したような気がする。」 

 最近旅をして気づいたことがある。
 目の前を通り過ぎてゆく人を眺めながら、自分がその土地に暮らす人たちが日常生活を送っているところを見たいと思っていること。

 列車を降り改札を抜けて歩いてゆく人。
 農道の真ん中で立ち尽くす人。
 こどもと話しながら自転車をこぐ人。
 大きくて頑丈なカバンを膝に置き、居眠りする人。

 その人たちが、今夜どのうちに帰り、どんなふうに明日朝を迎えるのか。
 そんなことをひとり想像する。
 そして、意識を自分が住む町京都に飛ばし、あそこで暮らすわたしが知りもしなかった世界で、この人たちは暮らしているのだという思いが頭にも胸にもぎゅっと刻まれる。
 そうすると、名もしらぬ人たちが急に愛しくなる。
 中には、罪人や悪人がいるかもしれない。
 でも誰もがそこで生き、いつかは死んでゆくのだと思うと、自分にはもっと見ておかなくてならないもの、そのために行かなくてはいけないところがあるような気がしてくる。

 生きることには時間が付きもので、生きている分だけ記憶も積み重なる。
 その記憶はたとえ本人が忘れてしまっても、町のあちこちに刻まれ残る。

 以前ここに、自分が旅をするのは記憶を求めているからだと書いたことがある。
 それは、思い出を振り返るためという意味ではない。
 自分が書いたものを引用するのもおかしな気もするけれど、そのとき書いたものを引用しよう。

「わたしが旅をするのは、記憶を求めているからだ。

 それは決して、思い出ではない。
 あくまでも記憶。
 それは、自分のものではないのかもしれない。
 別に、誰かの記憶でもいいのだ。
 旅の中で、これだ、と思う時間を、自分も他人も、過去も未来も飛び越えて、手にすること。
 わたしはそれを、求めている。

 自分の過去の思い出という焦点が定まっているわけではないから、旅をすることで記憶を探しているわけではない。
 わたしがしているのは、もっと漠然としている。
 旅先で、両手を広げて飛び込んでくるものをただ待つとはなしに待っているだけだ。

(中略)

 誰かの記憶をなぞる旅。
 誰かの思いとともにゆく旅。
 自分の不確かさを確かめる旅。
 自分のルーツを辿る旅。
 誰かとともに新しいものを発見しにいく旅。

 誰かと自分の記憶を交差し、重ね、慈しみ、包み込む。
 そういう旅をする中で、今自分が感じていることが今なのだと思えるようになった。」

 旅先で、わたしの鼻は、そんな記憶にピクリと反応する。
 だから、なんでもないようなところで立ち止まって、自分のなのかそこにいた人のなのかわからなくなった記憶に衝かれて、急に感慨深げなきもちになるのだ。
 デジャブとも憑依とも違う、その感覚。
 それをわたしは、旅で何度も味わってきた。

 今までの人生で大切な旅をひとつ。
 まだこれからも旅を続けるわたしの答えは、決まっている。 
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by fastfoward.koga | 2010-10-18 22:06 | 一日一言

呼応すること

 ときどき、どきりとするタイミングで人と呼応することがある。
 最近も、こちらが思っていない人から、思っていない言葉が返ってきた。
 するっと出た言葉を、紙飛行機にして飛ばすように手を前に差し出した、くらいのつもりでいた。
 でも言葉が書かれたものが届いたら、やっぱり相手は言葉を返そうとしてくれる。
  
 呼応してくれて、ありがとう。
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by fastfoward.koga | 2010-10-17 22:44 | 一日一言

無制限1本勝負

 今日は大学の図書館にいた。
 昼食とトイレ、休憩以外は、ずっと机の前。
 時計は見るたび、針を270度ずつ回転させていた。

 持参したテキスト4冊に、レポートを書くためにまとめたノートを2人分の机を占領して広げる。
 そして貸し出しパソコンに、ボンボン飾りのついたUSBをセット。
 首に巻いてきたストールは膝の上に置き、腕まくりをして挑む。
 無制限1本勝負。
 11時半に始まり、休憩を3回はさんで、終わったのは19時40分。
 計8時間10分の長丁場だった。

 昨日の夜、3色ボールペンを手にして改めてテキストを捲った。
 付箋だらけで、前半部分だけが手垢で汚れ始めている。
 捲って戻って、捲って戻って。
 そうしている間に、ひとつの答えに辿りついた。
 前かがみになっている上半身は跳ね、なにもないのに思わず視線は上を向き、頭を後ろに引いた。
 人はひらめくと、マンガみたいな行動をとってしまうものなのだ。

 レポートの道筋は、出たとこ勝負だと考えなかった。
 1時間ほど昨日読んだテキストとは違うものを読み、うーんとひと唸りしたところでふわっと浮かんだ文章を記すべく、そのままキーボードを叩いた。
 時折後ろに倒れる背もたれに身を任せたり、腕を組んでみたり、あとは流れを止めないよう、ほのかに自分に祈りながら書いた。

 どこへ辿りつくのか、わかっているようなわかっていないような。
 それでも、4ページ目途中あたりまできて喉の奥がくっと詰まった。
 すかさず握りこぶしで、鼻下を押さえる。
 不覚にも、自分の書いた文章、しかもレポートで泣きそうになった。

 昨日、思っていたのだ。
 映画の予告編がCMで流れるだけでも泣きそうになるくらいなのに、こんなにも息苦しさを感じるこの状況で自分のことで泣けたりしないなと。
 いっそのこと、わーんと泣いてしまえれば楽なのかと思いながら、同じ場所にいる自分はそれを行動に移そうとしない。
 じゃあいったい自分は誰にコントロールされているのか、不思議だった。

 それでも今日、忍耐強く、レポート提出用に設定されたワードの縦書きに、書いては少し消し、書いてはまた少し消しをくり返しながら5枚目に到達したら、泣かなくてよかったと思った。
 迷う事柄など他に多々ある。
 今日の勝負も、勝った気はしない。
 それでも、レポートひとつ仕上げただけで、深呼吸のひとつでもした気になれた。
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by fastfoward.koga | 2010-10-16 22:31 | 一日一言

俯瞰希望

 久しぶりに、夜の新幹線に乗った。
 空いているわけでも、ざわついていないわけでもないのに、耳栓をしているように車内の音が気にならない。
 清潔な空間と腰掛けたシートのフィット感に、安心する。

 メールを1通送信し、読みかけの本を開く。
 ひと駅目を通過したところで、しばらく外を眺める。
 読み取れないネオンサインを、流す。
 ごおっという走行音に、ふと新幹線ではなく飛行機に乗っている感覚を覚えた。

 離陸直前。
 もうすぐネオンサインは、斜め下に見えるはず。

 という錯覚を頭に描いたところで、自分が俯瞰したいのだと気づく。

 毎日、不満たらたらしたものはないけれど、このままでいいとも思えない。
 見えない壁で覆われた閉塞感。
 でも頭上がぽかりと空いていることは知っている。
 だからこその、俯瞰希望。

 羽はなくとも、まっすぐ上がればよいのだ。
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by fastfoward.koga | 2010-10-12 00:24 | 一日一言

ハイ、ココ、しゅーちゅー

 先週末から、レポート書きの下準備に集中(1回飲みに行って、二日酔いになったけど)。
 締め切りは、連休明けの12日必着。

 あと少し、もう少し。
 
 珍しく集中できているので、もちょっと更新滞ります。
 すんません!
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by fastfoward.koga | 2010-10-08 19:57 | 一日一言

海あり山あり 日本列島輪切りの旅  「紛れ込むウォーリー」

★7月29日(木)
 -長野市(善光寺)散策-
 8:56 長野駅発 ⇒(長野電鉄・長野線)⇒ 9:15 須坂駅着
 9:19 須坂駅発 ⇒(長野電鉄・長野線)⇒ 9:48 湯田中駅着   -湯田中散策-
 11:07 湯田中駅発 ⇒(長野電鉄・長野線)⇒ 11:43 小布施駅着   -小布施散策(昼食)-
 14:04 小布施駅発 ⇒(長野電鉄・長野線)⇒ 14:12 須坂駅着
 14:28 須坂駅発 ⇒(長野電鉄・屋代線)⇒ 15:05 屋代駅着
 15:30 屋代駅発 ⇒(しなの鉄道)⇒ 15:36 戸倉駅着
 15:38 戸倉駅発 ⇒(しなの鉄道)⇒ 15:53 上田駅着  -(夕飯)-

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by fastfoward.koga | 2010-10-02 23:58 | 旅行けば

本日、回帰

 パソコンの中身がすべて消えてしまうかもしれないと言われた日、考えた。
 1番なくなって困るものはなんだろうと。

 旅の写真か、今まで読んだ本のリストか、亡くなった友人とやりとりしたメールか。
 どれもそのままであってくれれば、と思った。
 でもそう思う反面、すべてなくなったらという想像も難しくはなかった。

 真新しいパソコン。
 同じように、生まれ変わった自分。
 と、きっとわたしは勘違いするのだ。

 いつまでたっても、そんな夢みたいなことを考えていた。

 パソコンが自分の手元になくてそわそわしたのは、初めの3、4日ほどだけだ。
 音博のレポを書き上げたら、しだいにその熱も冷めていった。

 書けないという事実は、自分を解放するきっかけになっていた。
 大粒の雨に、andymoriのワンマンライブ、眠れずに過ごした夜と次の日頭痛で早退したこと。
 ブログが書けたら今日はこんなことを書くのに、と負け犬の遠吠えのように毎晩思っていた。
 
 けれど自分は知っていた。
 1番なくなって困るのは、記憶だと。
 
 書きたくても書けない状況に、自分はどれくらい耐えられるだろうか。
 思っていたのは、初めだけ。

 自分が耐えられないのは、考えられなくなること。

 見たもの、聴いたもの、感じたことを元に思考を働かせ、その意味を考える。
 それができなくなったら、死んだも同然だ。
 そして例えそれができても、それを残せなければ自分じゃなくなるだろう。

 そういう意味では書くことは連鎖して必要なことに含まれそうなものだけれど、きっと今書いていることは書かなくてもわたしの記憶には残る。
 いくら人の脳に忘却スイッチがあって、それを自分の自由に操作できなくても、忘れずにいられることはある。
 数は少なくなるけれど、不可能じゃない。

 そんなことを書きながらも、このブログがパソコンのメモリーとはまったく別のものだったことにほっと息をついたのだ。
 ここには書いたことで安心して忘れてしまっているものが、いくつもある。
 この数年は、それを時折確認して前に進んできたのだから。

 たら、れば、の世界にひと晩どっぷり浸かり、見つけたものは書くよりも考えることだった。
 けれど、ひとりの頭の中で考えたことをそのまま蓄積させられる器でもなく。
 結局誰かと繋がっていたいと、人は、わたしは思ってしまうのだ。

 そういう意味で、バーチャルリセットは無駄ではない。 
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by fastfoward.koga | 2010-10-01 22:32 | 一日一言