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黄色いお月様

 どん、という音とともに、目の前に月見うどんが置かれた。
 どんぶり鉢の真ん中に、ちょい半熟の玉子が浮いている。小夜子は、まるでお月様みたいだと思った。
 テーブルの隅に置かれた七味唐辛子に手を伸ばし、ラベルの「原了郭」という文字を見て、わたしは七味屋本舗のほうがすきやねんとつぶやき、七味を元の位置に戻した。そして、七味は原了郭の黒七味だろうとムキになって言う旦那、いやもう少しすると元旦那になる男のことを思い出していた。
 割り箸を持ち、いただきますと手を合わせ、やわらかい麺をすすった。寒空をマンションから駅まで数十分、大きなスーツケースを押しながら歩いてきたからほんとうは暑いぐらいだったけれど、どんぶり鉢を手にし、おつゆを喉へ流し込むと、手と唇がどれくらい冷えていたかがものさしで測ったようにわかった。
 小夜子はありがたい、と思いながら、どんどん麺をお腹の中へ納めていった。途中、半熟の玉子を割ろうかどうしようか迷い、えいやっと玉子の真ん中に箸を突っ込んだ。透明のだしに黄色いどろっとした液体が流れ出し、その色を見て、ダイニングテーブルの上に置いてきた黄色い封筒みたいやわ、と思った。
 封筒が他になかったわけではない。でも、茶封筒と鮮やかなグリーンと白い封筒と黄色のが抽斗の中にあるのを見たとき、小夜子は迷わず黄色い封筒を手に取った。仕事から帰宅し、この封筒を手に取り中身を確認したあと、またかと苦々しい顔をする旦那の顔が目に浮かぶようだった。
 ダイニングテーブルの上で、昨日区役所でもらってきた離婚届に間違いのないよう丁寧に記入していき、最後に判を押した。片側の欄はまだ空白で、その白さを目に焼きつけ、折り目に従って畳み、封筒へ入れ封を折り返した。その一連の作業を、三度目ながらも小夜子は儀式を執り行うかのように慎重に行った。
 そのあとひとつひとつの部屋(そう多いわけではない)を回り、お風呂とトイレ、そして最後にシンクをチェックして、スーツケースを玄関へ運び出して扉の鍵を閉めた。鍵は一瞬迷ったけれど、儀式、儀式、と言い聞かせ、鍵つきの郵便ポストへ落とした。
 マンションから駅までは下りの坂道なので、小夜子は大きなスーツケースを持って歩くのに苦労し、駅前のうどん屋へ入るころには全身にだるさを感じるくらいだった。店内は、夕飯時と言えば夕飯時のこの時間、サラリーマンがひとりいるだけで、外の賑わいに反し静かなものだった。けれど夕刻のニュースが天井近くの棚に置かれたテレビから流れ、静かすぎるわけではないなと少し安心した。大きなスーツケースが邪魔にならないよう、入口から遠い角のテーブルに腰を落ち着け、小夜子は開いたメニューから肉うどんと迷って月見うどんを選んだ。
 箸でつぶした玉子は、あっという間にだしを濁らせてしまった。あぁぁと思わず声を洩らし、でもつぶす以外に選択肢はあったのか、などと馬鹿馬鹿しい自問自答をしながら、麺を一本も残すことなく月見うどんを平らげた。
 この店に辿り着くまでは、空腹は人を狂わせるわ、と小夜子は思っていた。
 駅へ向かう間は、スーツケースの取っ手を握りしめながら、この先のことを、先と言っても駅に辿り着いてからのことを考え不安になっていた。いや、不安と言うよりは途方に暮れていたと言うべきか。離婚届を区役所に取りに行き、署名捺印をするまでは覚悟を決めた上でのことだったから淡々としていたのに、それを黄色い封筒に入れた途端に、急に現実が自分の元へ大波となって押し寄せてきたような気がしていた。それもこれも、前回、前々回と変わらない。おかしなことに、それを小夜子は理不尽なことのように感じていた。
 スーツケースのガラガラという音は、じっと聴いているととてつもなく怖いものが近づいてくる足音のように聴こえた。これではいけないと、明るくなる歌を歌おうとするのだけれど、こういうときに限って思い浮かぶのは寂しいメロディの曲ばかりで、ぐるぐると頭を巡らせた挙句思いつかず、結局「夜空ノムコウ」を口ずさんだ。初めはきもちが少し下がり、どうしたものかと思ったけれど、サビまで辿り着くとこれもまたいいかもと思えるようになった。ちょうど歌詞がわからなくなったあたりでうどん屋の看板が目に入り、このまま歩いてもまた不安になるし、歌詞を誤魔化すにはちょうどいいと暖簾をくぐった。
 麺を食べ切り、少しおつゆの残ったどんぶり鉢を見つめていると、お下げしますと店員が近づいてきた。早く出ろと言われているのかと少しビクッとしたが、そのすぐあとに湯飲みにお茶を注ぎながら、ごゆっくりと言葉をかけられたので、小夜子はなんとなく安心して湯飲みに手を添えた。
 湯飲みの中のお茶に映る白熱灯の灯りをじっと見つめながら、このあと、この店を出たらどうすればいいのかを考えていた。でも考えても考えてもすべきことが見つからないので、発想の転換だと頭を切り替え、自分ができることを順番に挙げてみることにした。
 わたしは、車の運転はできるし、結婚前は毎日満員電車に乗って人並みのお給料をもらっていたし、上司のセクハラもそれとなくかわしてきたし、生命保険は入ってないけど傷害保険は入っているし、ひとり暮らしをしたこともあるし、アンケートに答えるだけでいいと連れ込まれた部屋からなにも取られずに逃げることもできたし、骨折をして数ヶ月入院したこともあるし、痴漢を警察に突き出したこともある。
 あれもこれも、なんとかやってきたじゃない。いくつもの出来事を振り返り、小夜子はそう自分に言い聞かせていた。お茶を一口飲み、よし大丈夫、と思ったところで、でももしかしたら今まで考えたこともない嫌な目に合うかもしれないという別の思いが頭を過ぎり、浮かせかけた腰をまた元の場所へと戻してしまった。
 旦那と暮らした数年で、わたしはそんなに旦那を頼り、甘えていたのだろうか。確かに結婚して会社は辞めたけれど、短時間のバイトはしていたし、うちの中のことも手を抜かずにやってきた。のほほんと暮らしていたわけではないと思っていたけれど、実はそうではないのだろうか。
 考えても考えても出るのはため息ばかりで、視線まで下がったところで、大きなスーツケースが目に入った。じっと見ているとスーツケースに、マンションを出てここまで歩いてきたしんどさはなんだったのだと言われているような気がして、えいっとイスから立ち上がった。
 六百円を払い、外に出ると、吐き出した息は白く白く伸び消えていった。駅へと続く商店街の通りは家路へ急ぐ人で混み合い、そこをこの大きな荷物を持って逆送するのかと思うと気が重くなった。
 救いを求めるように、小夜子はさっきの玉子のような月を探した。今ここで月が見えたらこの先わたしは大丈夫、と願を懸けたのだ。けれどそんなに都合よく月は見えず、現実はこんなものなのよね、でもさっき思いつけなかった嫌な目がこのくらいなら大丈夫かもと小夜子は思うことにし、とりあえず縁がありそうだと駅前の黄色い看板のビジネスホテルへと歩いて行った。



 ◆お題     「黄色い封筒」 「お月様」 「唐辛子」
 ◆出題者   「書をつま弾く、そして歌う。」 calligraphy_m サマ
 ◆calligraphy_mサマへ
 悩みました。今までで1番長い間、考えました(笑)。
 まだまだわたしの言葉の世界は狭いわーと嘆きつつ、書いてみたので、たぶん数週間後に読み返すと苦笑いするかもしれません。
 が、そこはやはりチャレンジです(笑)。次の1歩のために書きました。これがステップアップのきっかけになるといいなと思っています。

 2度目のご参加、ありがとうございました!
Commented by mackworld at 2008-01-26 22:14
■あはは、段落が
芥川賞受賞の大阪人作家さんに似てますなー。
Commented by fastfoward.koga at 2008-01-26 22:26
mackさん、こんばんは。
読んでないから、似てると言われてもわからんー。
Commented by calligraphy_m at 2008-01-28 22:46
一番悩ませてしまったようで、すまないという気持ちとしてやったりな気持ちと半々でいます。にゃはは。ワクワクしながら読みました。
七味にも京都ブランドがあって、オットとツマではそれぞれ好みがあるのねーとしみじみする夜です。確かに月見うどんの卵をつぶすタイミングはいつも迷います。
小夜子さんが3回目の離婚届が通るかどうか、旦那がすんなりと受け入れてくれるかどうか...次の展開を読みたいです。ちょっと考えすぎのきらいがある小夜子さんに、さぁ、くよくよ考えずに前向きにいくのよーって声をかけたくなります。ちょっとはがゆい!(笑)
そして、コガさんのステップアップも楽しみです。
Commented by fastfoward.koga at 2008-01-29 22:34
calligraphy_mさん、こんばんは。
わくわくしながら読んでいただけて、よかったです。
どうしても実物として見た黄色い封筒と唐辛子から頭が離れず、困りました。ハイ。
でも最後は楽しめました。どうもありがとうございます。

今回書き終えて、しみじみ、みなさんからの感想はもっと厳しくいただかないとステップアップにならないなと・・・。
言い残したことがあったら、言ってくださいね(本気)。
by fastfoward.koga | 2008-01-26 00:13 | さんご | Comments(4)

言葉数珠つなぎ


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